忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

先日の続きなど 気づいたら師走、振り向けば…

 先日の続き

 珍しくちょっとだけ根気よくやっている。というのは興味を持ったということではある。以前、『パラサイト 半地下の家族』と『万引き家族』について感想を書いた気がするが、この2作にがっかりした理由とそれは同型の問題かもしれない。が、それはぼくの勘違いかもしれない。そういう勘違いが得意なのだ。

 

 一昨日までに整理できたことはほんのわずか。そのおさらいから始めてみよう。ある議論を始める前提として措定したことが、その必然に成り行きをまかせれば、帰結と背馳する、と理解した。

 が、これは大森に対する理解であり、同様のことが廣松渉にも言えるのは知らない。

 

 ただ、その理解が許されるなら変な問題がある。大森の文章は非常に読みやすく書かれているのだ。渡辺一夫のときにも思ったが、平易な文体でかかれている。そして、それは内容の易しさを意味するわけでもない。

 そのことがなぜ変なのか?

 大森の文章の書き手は無論、大森自身である。永井さんのことばにならえば、「(なぜか)いつも意識だけの人」として書き手は存在する。そして、大森の視点から見ると「いつも振舞だけの人」である読み手に向けて書いているわけだ。そこで、大森はなぜ平易な文体を選んだのか?振舞だけの人に対して自分の文章を理解してもらうことがその目的であったのか?この問題がまずおもしろかった。

 その問いの立て方が間違っているかもしれない。一般に人は…と書きかけて、そういえば、もうひとつ別の問題があったと思い出した。そっちをさきに書いておこう。

 論文という形式はそもそも一人称で書かれる。そのどこが問題なのか?永井さんの議論に重なるので、いろいろとすっ飛ばしてしまうと、だれの論文と限らず、私とはだれを指すのかという話。

 ただ、小説ような形式であったなら、その問題を回避しつつ、大森説を描写することは可能だったのだろうか?登場人物が2人いたとして、かりにAさんとBさんとしてみる。Aさんには意識/振舞の両方があると読めるように描く、Bさんも同じように描くものとする。Aさんの会話、独白とBさんの会話、独白を交互にやっていく。そうするれば、意識だけの人と振舞だけの人という問題は回避できるのか?どうなのだろう。登場人物がただ2人だけであったなら、そうなるのだろうか。しかし、おもしろいのか?いや、おもしろくなくていいのだけど。(いくつかその手の小説が頭をよぎり、どれもおもしろいと思ったのだった。)

 それはそれとして、違う問題がでてくるか。その作者、あるいは読者が、なぜか、登場人物の意識と振舞を完全ではないにしても、のぞくことができるという問題。こうなってくるとぼくの頭は考えるのを止める。めんどくさいとゴーストが囁くのだ。作者‐テクスト‐読者問題になるのか、どうか。

 で何の話をしていたのか。

 そうだ。論文という形式をとっているが、内容を相手に理解されることはあってはならないはずのものであったはずなのに、どうして平易な文体を大森は採用したのか?

 

 ここからもう半ばやけくそのあてずっぽう。ひとつは実際には理解されえない状態であっても、なぜか世の中はうまく回るようにできている可能性。これは最近のマイブーム(死語)。とにかく、この世界では謎の力学が働ていて、なんでもかんでもそのおかげでうまくいっていると考える。

 もうひとつは理解されては困るようなことであっても、人は話してみたくなる、書いてみたくなる奇特な生き物だからというもの。イゾラド族、最後の生き残りとされる人をテレビで見たことがある。彼は自分のことばがだれにも通じていないという自覚はあったように見えた。それでも、映像の中で、たしか身振り手振りをまじえながら、ずっと話していた。が、そこから奇異な感じは受けない。ぼくだって、ひとりでいるとき、頭の中でごちゃごちゃやっている。だれに話しているのか?無論、祈りのようなものであったなら、そこに聞き手は想定してもいいが、ぼくの場合など本当に心底、どうでもいいようないいことを独りでブツブツやっている。この日記はそういう類の文章ばかりでもある。それと最近、山田五郎さんによる美術の解説で知ったアンリ・ルソー。この画家は自分が好きで絵を描いている。だれかにうまいと思われたいとか関係なしにやっている。書くとか、描くとか、話すとかの「初源性」っておそらくそういうものではないだろうか。

 そして、さっきの問いに戻るのである。なぜ平易な文体で書いたのか?

 

 ここからは別のお話。

 細かいネタバレは見ていないが、『平家物語』はけっこう評判がよさそうなので、年明けが楽しみ。でも、語り部が主人公という事前情報を知ってしまったので、かなり身構えている。漠然とある『平家物語』に対する先入観。それと歴史というものに対する自分の態度。このへんがガラガラと音を立てて壊れるのを期待してしまう。

 そういえば、大森先生からすると歴史もじかに立ち現れる?この感覚はすごくいいと思う。回顧するとか、思い出すとはそういうことで、その感覚から歴史に対する評価みたいなものは出てこないような気がする。

 

 秋アニメも残りわずか。今年はこのままいくと『裏世界ピクニック』が個人的には一番好きだったかも。毎年、ひとつはとても好きな作品に出会える。ああ、今年は『小林さんちのメイドラゴン』もおもしろかった。『蜘蛛ですが、なにか?』も。毎年、2,3作品かもだ。まあ、そこがいくつかなんてとくに決まりがあるわけでもなし。(『色づく世界の明日から』は制作年は2018らしいので、今年のアニメにはいれませんでした。同年はたしか、『やがて君になる』に夢中になっていた気がします。)

 

 風呂入って寝る!

 

 と思ったけどひとつだけ。ツイッターでは極めて政治色の強い言論というよりも、政治そのものが行われるケースがあるようだ。政治なのであれば、そこで生じた結果に対する責任はあるだろう。ただし、政治(闘争)とはまた同時に勝ち負けを生みだしもする。それは『平家物語』でも描かれていたはずだ。負けたほうにできることのひとつは文学だろうか。

 ついでなので、『平家物語』について持っている先入観について、自分が当時に生きていたら、えらそーにしている平家のことは嫌いだっただろう。その平家が滅びゆくさまを見て、舌を出しただろうか?よくわかからない。かりにそうしても、ちっとも気が晴れないやとは思ったかもしれない。そんな感じ。