昨日の補足など
昨日、やっつけで書いた部分は異なる問いに対する現時点での考えをまぜこぜ書いてしまった。それぞれ独立した問であるのだから、それぞれに対応した考えを分けて記すべきだった。まあ、ごちゃごちゃにしたままでもいいのだけど、少し整理しておこう。
①大森が議論はその帰結として他者に通じてはいけないはずなのに、なぜ通じてしまうのか?→世の中はどうやらそのようにできているから。→なので、この世の中のありようを考えてみようという次なる問いが生まれる。とりあえず、ほっとく。
※哲学の分野でどういう用語があてられるのかは知らないけど、共通理解みたいなものを仮構するとすべて解決とはならないだろう。(メーターのアナロジーの話はそうい話と理解した。)
②通じないであろう話をなぜ平易な文体まで動員して大森は他者に伝えようとするのか?→人間とはそういう奇特な生き物だから。
と、昨日、書いたのだが、これは一定以上の社会性のある生き物はみんなやっているような気もする。犬は特に用事もなさそうなのに、深夜に鳴いて人を起こしていた。起きて、様子を見に行くと何かを要求してくるわけでもない。犬語を理解できないので、なんもかもわからんわけだが、なんとかなっていた気がする。気がするだけ。
すると大森と廣松に共通するなぜか役割が固定される問題には触れていなかったということになる。そこで、あらためて考えてみると役割が固定された人間について書かれた文章というなら、それは実は小説のように読めるということになりはしないだろうか。
昨日、書きながら考えたこと、『見える子ちゃん』のおもしろさの核
『見える子ちゃん』について三者三様の世界観で生きていることにより生じるコミュケーションのズレが友情を育む土壌になっている不条理というふうに考えていたけど、これは違ったかもしれない。
あらかじめ、誤解を排除しておくと、友情とはよきこと、尊いものみたいな話をしたいわけではない。
答えはないわけだが…
ちょっと違うなと感じるのは作品から得る感興が笑いとも言えないし、深い感動があるわけでもなく。なんなのだろう。
作品自体は見るものを笑わせようとしているけど、作中のはな、みこ、ユリア(五十音順)はだれかを笑わせようとはしていないからか。
あまり、近年といっても2000年あたりからの「お笑い」文化に詳しいわけではないので、決定的なことはなにも言えないわけだが、ボケとツッコミというのはコミュニケーションのズレのこと?とすれば、『見える子ちゃん』はその線上にあるようで、ちょっと違うのは、やはり、登場人物がだれかを笑わせようとしているわけではないからのような気がする。これは他のアニメにもいえるかもしれない。というか、友達同士の会話ってものがそもそも、相手を笑わせるのが第一の目的ではない。おかしいことがなにひとつなくてもいいんでないのか。
繰り返すが、友情の大切さを説きたいわけではない。
なんで、そういう意地の悪い書き方になるのか?うーん。
ちょっと甘く考えていたと思う。たとえば、アニメで登場人物の成長が描かれていたりすると、それだけで高評価みたいな風潮。成長が描けている/描けていないが評価の基準になる。無論、主題がそれであるなら、そこは大事かもしれない。が、負のイメージがまとわりつくことばではそうならんのだろうし、ぼくはそこらへんが鈍感だった。というよりも、ことばにあらかじめ正負のイメージを持つことに対する違和感か。少し前に読んだフーコーに影響されたのか?という部分もあろうが、成長に対しては以前から懐疑的。なのに、成長物語と一般的に見られているものはけっこう、というよりもかなり好き。困った話だ。(一般に成長と見えるものがぼくには堕落に見えたりするので、さらに困ったものである。)
そういえば、この点でも『平家物語』は楽しみ。主人公が肉体的には成長しないらしい。それが精神の成長の否定であるかは、見てみないとなんも言えん。肉体以上に精神的成長なんてわけのわからん代物であると思う。