忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

大まじめにつくっているのか、ギャグとしてつくっているのか

 たしか宇多丸さんのラジオでだったと思う。それは映画評ではなく、漫画評として『鬼滅の刃』の主人公、竈門炭治郎の異常性について言及していた。同じことが煉獄杏寿郎についても言える。煉獄さんのだれの意見も全く聞く気がない様子に狂気を感じるという感想も目にした。鬼滅論を書こうと思ったわけではない。上記のような見方について前々から気になっていたのだ。

 まず、ドラマ『スチュワーデス物語』から始めたらいいのだろうか。この作品を当時の人は大まじめな作品として鑑賞していたのだろうか?印象的なワンシーンの抜粋をなにかで見たことがあるに過ぎず、ギャグとして見られているのか、とぼくは思った。この記憶自体だいぶ前のものゆえ、はっきりとはしてないが。その時、思ったのはつくるほうの意図としてギャグというものを意識していたか、どうか。ギャグとして見られるようになったのは偶然の産物?

 いきなり時代を前に進めてぼくの見たものに強引に話をもっていくとドラマ『トリック』がある。上記のように大まじめにやっている話をギャグとして見る視聴態度をあてにしてか、どうか、あきらかに見るものを笑わせようとしている作品である。まだ、テレビを見ていたころの話だ。『スチュワーデス物語』との違いは明らかで、すでに書いたように作者はつよくギャグ要素を意識しているのが伝わってくる。その分、登場人物の狂気は弱まる。(そのせいか、ぼくはあまり笑えなかった。)

 で、また時間を遡ると歌舞伎に『勧進帳』があるけど、これをギャグとして見る人は昔はいたのだろうか。今でもいるのかは知らない。

 大まじめにやっているものを笑うというのはどういう感覚なのだろう。背後にある狂気に笑える要素、おかしさがあるということになるのだろうか?その狂気にしても笑えなくなる境界とかあるのだろうか。

 『スチュワーデス物語』の系譜が『鬼滅の刃』で、『トリック』の系譜が『見える子ちゃん』みたいなことを思ったのだ。でも、『見える子ちゃん』以外にぼくはあまり興味を持てなかったので、なんとも言えない。

 ニコ生でコメント欄を見える状態で鑑賞するのは『スチュワーデス物語』の楽しみ方に通じるものがあるような気がする。その空気を共有したいというのはまた別の問題か。不良(ヤンキー)文化とオタク文化、運動部(体育会)系とオタク系の親和性だろう。(この三つは同類という話ではない。そのような分類は空気の問題を考えるに際し、意味をなさないといいたいだけ。)

 脱線した。

 でも、ぼくはへそ曲がりだから、そもそも笑わせようとしてきたら、笑わないだろう。『見える子ちゃん』もギャグとしてはそれほどおもしろくない。(別のところがおもしろい。)