忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモ

 冷たい世間の空気にさらされ、家路につき、玄関をくぐると眠気に襲われ日記をさぼってしまった。これは嘘だな。寒い外気から暖房のある部屋に入ると眠くなるいつものパターンに流されたに過ぎない。

 

 忘れないうちに書いておこうと思うことはいくつか、あった。

 大森壮蔵に関する論文集では、丹治信春さんのもの。

 一般論として誰かの考えに異論を唱えるには困難がつきまとう。異論、あるいは批判の有効性というものを度外視したようなもの、具体的には、人の考えの粗探しは、そもそも批判にすらなりえないからだ。そのことを思い出した。「論破」ブームとはまた少し違う問題か。まあ、いいや。「論破」はゲームなのだと思う。ぼくにはおもしろくないけど、楽しいという人もいる。そこを考えてみようとは思わない。脱線。ひとつだけ誤解なきように。ぼくにはどうしても論破しなきゃいけない考えというものがないだけ。そういうものを能動的に探しに行くのがそもそもめんどい。

 なので、生活の中でも、めったにそのようなことはしない。下準備が面倒だし、その後も場合によっては、面倒だから。相手の考えの良質な部分、あるいは本質に嚙みつかないで、どうするんだという身もふたもない話。しかし、その道を避けた結果としてぼくは皮肉屋にはなっているかもしれない。皮肉という方法がぼくの「せ・い・ぞ・ん・せんりゃーく(生存戦略)しましょうか」になっているのだと思う。しかし、皮肉も生活の中ではあまりいわないか。いや、皮肉と受け取られていることはありそう。気にしない。

 話は飛ぶが、書きことばでも、話しことばでも上手な人というのは自分の考えの弱いところを感じさせないというのはあるのかも。書きことばならレトリックの多用とか。話しことばなら勢いとか。まあ、わからん。アンリ・ルソーは詐欺師としての腕前はどんなものだったのか。ちょっと気になる。

 なんか、いろいろと関係ない話をしてしまったが、大森壮蔵という人がおもしろいということはわかった気がする。ぼくもその姿勢を見習って、屁理屈をこねくり回していきたい。というのは違うか…(センスのいい屁理屈というものは難しいのがわかったので、これまた無理のない程度に見習いたい。)

 

 そういえば、書評家の方の書評も一つだけ読んだ。独特な文体をひとつの文章の中で維持していることはすごいなと思った。その書評を読んで多くの人が持ったような感想は本人にしてみれば自明なことで、それでもあえてやっているということになるのだろう。すでにその種の視線は自分で自分に浴びせているはずだ。よくわからんけど、それはすごいことではなかろうか。

 

 ああ、関係ないことを思い出した。

 どんな作品にも「成長」を見出す風潮にぼくは違和感がある。というのはその通りなのだけど、でも、すこしだけ思い直した。人間に対する理解なんてその程度でいいんだ、だいたい、「成長」とでもいっておけば済むんだというのなら、そういう考えを尊重したい。人間というものをとことんなめくさるのであれば、その路線で頑張ってもらいたいからだ。オタク文化にはこの路線でおもしろいものがたくさんあると思うので。自己を相対化する視線、そこからさらに人間一般に広がっていく感覚がたぶん、オタクにはある。とはいえ、べたな成長路線ものもなくはない。これは市場の問題となると仕方ないのか。ぼくの範囲外の話。

 この姿勢とは反対に人間に対する洞察を深めていく路線。これはこれで問題がある。この日記でも数か月前?書いた話。いつだったか、ツイッターである方が、物語の本筋とは無関係に挟まれる挿話のおもしろさに言及していた。そのことに関係する。

 劇場版『機動警察パトレイバー』もそれ。後藤、柘植、南雲(五十音順)の三角関係はぼくの理解では、映画の本筋ではない。それにもかかわらず、その関係性が様々な意味で興味深く、印象に残るため、恋愛映画に見えなくもない。勘違いかもしれないけれど、こういうものが人間なんじゃないか、と思わせるのだ。

 『リズと青い鳥』が罪深いのはそこだな。希美がみぞれに対して出会いの記憶がないフリをした場面(大好きのハグの場面)は人間が咄嗟にとってしまう行動の不可解さ、そのもの。おまけに本筋から外れてもいない。あまりにも整い過ぎている、ともいえる。だから、この映画を見ると人間をやめたくなるのかもしれない。人間というものは正視にたえないのだろう。共感性羞恥の話ではありませんよ。すくなくとも、恥ずかしくはないので。よくわからないけど、この映画を見るとだれかに謝りたくなるような、ならないような。しかし、謝るとして、だれに?という疑問。

 いずれにしろ、困ったことにどちらもおもしろいのである。

 

 実写映画とアニメ映画

 写真と絵画

 どっちがおもしろいとか、優れているというお話ではない。

 ただ、人類との付き合いの長さの話。

 アニメ映画はいつごろから今のような位置を占めるようになったのだろう。

 まあ、でも最近、思うのは人間の目にとっては絵との付き合いは相当、長いわけだし、アニメーションもその点ではなじみ深いのかもしれず、実際のところは今が特にアニメの時代ではないのかもしれない。しかし、人類の重ねてきた経験というものの影響はそんなに大きいのか、とも思うし、やっぱりわからん。

 『リズと青い鳥』とか実写でやるとどうなんだろう。ちょっと想像できないかも。フルートの反射光で遊ぶシーンとか、あれは実写にできるのだろうか。CGならできるのか…よくわからんけど、見栄えするのか。

 ああ、このシーンについては希美がみぞれに好き好き光線をあてているという解釈にした。面倒になってきたので。とにかく、ぼくはこのシーン、というか、一連の流れが好きなのだ。

 

 『白い砂のアクアトープ』はなんだか微妙に支離滅裂にはなっていない。そこがすこしもったいない。難しいのだと思う。狙ってやれるようなものではないのだろう。荒唐無稽ではないから見ているのだし。

 

 挿絵で思い出すのはこども版『三国志』とか、『水滸伝』。林冲なんか、その絵のイメージだ。今でもあるのだろうか。絵本はあまり読んだ記憶がない。『ノンタン』は好きだったような。ラノベを読んでみて感じたのは挿絵っていいもんだなということ。すると、そこは紙のほうが好きかも。

 林冲で画像検索するといろんなものがでてくるんだな。

 

 これはほめことばとして『ダンまち』は全然、出会いを求めていない気がする。なんだこれと思った。もっと求めたらいいのに、とも思った。

 

 日本にアメリカのような格差はないというのはその通りかもだけど、平氏は文学になった。ではパソナはどうか?ならないのなら、それは現代が力不足なのか?物騒な世の中でなくなったというなら、それは歓迎すべきことのような気もする。そうか。タワーマンション文学というものがもしかしてそれだったとか?だれが書き、だれが読むのか、以前からけっこう不思議に思っていた。そこに「初源性」はあるのか。ディレッタントなだけじゃ、おもしろくないんじゃーというツッコミが野暮か。風刺が精いっぱいの批評的な態度というのはもやっとする。親ガチャ文学とか、学歴フィルター文学とかも出てくるのか。(学歴フィルターは親ガチャの延長上の話ではないのか?)とりあえず、「あるある」は文学ではないと思うぞ、というのも野暮か。うーん、でも、三島が生きていたら、最高のタワマン文学を書いて、多くの善良な人をイラつかせていたような気もする。そして、その三島をイラつかせる吉本がいなくなっちまったのが今なのかもしれない。ふたりとも会ったことはないし、三島に至ってはぼくが生まれたころにはすでにこの世にいなかったのだし、寂しいというのも変だが、なんだか寂しいね。