忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

探しているうちに

 漱石の『虞美人草』が気になっていて、読もうと探したら、見つからず、こまったものだなとぐずぐずしているのもなんなので、すぐに見つかったというか、いつのころからか、机の隅に置かれている『夏目漱石を読む』(吉本隆明)をまた手に取ってみた。何度目なのかは覚えていない。彼の著作の中でもだいぶ好きな部類に入る。ぼくは彼の声を生で聞いた経験がない。最近になって聞いたといっても、YOUTUBEでわずかに聞いたことがある程度の話だ。そんな自分にとってはこういう講演に手を加えた形式の本は読んでいて楽しい感じがする。同様に最近、買った小林秀雄の『学生との対話』も気に入っている。かれらの対談集とかもけっこう好きかもしれない。

 いきなり脱線から始まってしまったようだ。ついでなのでもうすこしどうでもいい話をしよう。漱石の読み方については柄谷行人の影響を受けている自覚があったがそれは間違いで、ここ数日、『夏目漱石を読む』を読み返していて、むしろ吉本に影響されているところのほうが大きかったと気づく。漱石の読み方というよりも文学の読み方というほうがより正確かもしれない。

 まず、かなり雑にいってしまうと吉本の読み方は作者還元主義の読み方で、漱石的主題を吉本は漱石の生い立ちに由来する資質に求めていく。

 次に、かなり大胆に文学ってのはもともとはこういうもんだみたいなことを言いきってしまう。正直、吉本の感じ方についてはよくわからん部分もあるのだけれど、ぼくもその姿勢だけはまねて、文学ってのはこういうもんだみたいな妄想を巡らせることがよくある。彼のいう「文学の初源性」みたいな発想は楽しい。

 大雑把にいうと、このふたつのことは吉本から影響をうけた。ぼくが小説を読むときの態度みたいなもの。

 

 漱石的主題について

 宿命/反宿命の物語。

 「宿命の物語」とは成り行きに自然に任せる物語。

 「反宿命の物語」とは自然な成り行きに背く物語。漱石の小説はどんどんこちらに傾斜していったというのが吉本の読み方。もうちょい詳しく書くと、同じように宿命に逆らうにせよ、『三四郎』は野放図な青春物語であり、青春の持つ酸いも甘いもあるが、『それから』以降は破滅的になっていき、『明暗』は未完に終わる。

 その物語はいずれも女性ひとり、男性ふたりの三角関係という形で描かれる。

 こうした読み、読解も面白いけれど、吉本の読みが面白さはこのような主題に執着した淵源を漱石の生い立ちに見ているところで、まあ、あまり詳しく書くのもあれなので、ひとつだけ記しておくと、漱石に同性愛的指向があったと見ている。その根拠はわりかし明瞭で漱石の小説の中の女性ひとり、男性ふたりの三角関係において、その男性ふたりは親しい関係にあるため、西洋の不倫小説、姦通小説と異なり、恋の駆け引き、勝ち負けが主題にはならず、例えば、『こころ』の先生のように三角関係から罪の意識が生まれ、やがては自死に至る、破滅的結末を迎える。漱石の小説に出てくる登場人物のおおくは自らの意志で自然な成り行きに背き、言うなれば自ら不幸になりに行く物語なのだ。

 こう解説されるとたしかにそう思える。漱石を好きな人が世の中にどれくらいいるかは知らないが、おおくはその暗いところも含めて、好きなのだろう。

 ぼくが『俺ガイル』に悲劇的結末を予想したのはこのためだったかもしれない。この場合に悲劇的というのは自死のようなものを指すわけではなく、主要な登場人物、特に奉仕部の3人がそれぞれの自然な成り行きに身を任せるのを止めるといような意味合いである。

 

 吉本隆明の面白さ

 詳しい内容は省くが、吉本が夏目漱石に同性愛的傾向を見るという場合、漱石がそもそも性を均質的にとらえているから、と吉本はいうのだが、これは漱石もそうではありそうだが、吉本もそうなのでは?とぼくに思わせる。『フランシス子へ』(吉本隆明)で武田泰淳に言及している。その記述なんかを読むとますますそう思わせる。さらに言えば、フランシス子について語る吉本の文章をみると人間と動物の境目も彼の中では曖昧になっていたのではないか?と。吉本の場合は生い立ちによるところとも見えないので(彼の生い立ちをぼくは知らないので)、年齢によるものか?このへんのことを考えるとより面白い。

 また、性を均質にとらえているがゆえか、例えば、均質な性の世界とは別のところからそこに女性性が入り込むとある種の類型が生まれる見ている点。別のところからっていうのはどこよ?どこというか、吉本のいう「作為的」ということか?吉本による『明暗』の吉川夫人の解釈は面白い。

 

 それにしても当初予定していたものとは全然関係ないものを読んでしまった。明日はなに読むべ?