春アニメ メモ
先ごろ、フランスでは大統領選挙が行われた。地域にによる投票行動の傾向の違いに関する分析はすでにたくさんなされているだろう。
アメリカの大統領選でも、そのような分析はなされていた。おもしろいというと誤解を招きそうだが、州ごとの傾向ではなく、さらにその州内の住む地域による傾向の違いを見てぼくは驚いた。区画整理をやったのこどく、通りをはさんで赤と青に分かれているのだ。
本作はもしかしたら、そういうことを描き出そうとしているのか?というのがぼくの解釈である。あの世界の成り立ちは回が進むごとに明かされていくのだろう。その過程ではっきりすると思うが、現時点でのぼくの読みはそんな感じ。
ディストピアものといえば、そうなのかも?生きづらい世界からの逃走?その生きづらさの根源にリーチする内容なのか、どうか。すこし、言明にためらいはあるが、今の日本社会はどこか生きること自体が罰ゲームになっている。ある種の自虐はその表れであり、「タワマン文学」とかもろにその種の自虐の表現なのだろうが、それもまた、ある種の余裕を前提してるのだろう。
本作はどーなのだろう?ディストピアでありながら、どこかに余裕のある感じが今のところは漂っている。
脱線しちゃうけど、「なろう系」の作品のいくつかは罰ゲーム的な人生からの逃走のようで違う。なぜか逃走先の異世界でも泥臭く生きているからおもしろいのだと思う。皮肉にも、という枕詞はあきらかに間違ったことば遣いになるが、皮肉にも罰ゲーム的前世を参照しているのだ。この点で『リゼロ』、『無職転生』はおもしろい。
あまり考えようと思ったこともないけれど、現在のアニメ作品にはこのような傾向は確かにあるのかもしれない。というか、サブカル作品か。
『SPY×FAMILY』について
ぼくの着想ではないので、正確に把握できているか自信がないけれど、疑似家族が社会と対立せざるを得ない構造になる問題についてのメモ。
本作の3話を見て、すこし、わかったかも。3話でひったくりを捕まえてもらって、感謝していたおばあさんがこの家族に「幸せないい家族だ」みたいなことをいっていたが、偽物と知った後でも、同じこといえるのか?そんなのいえるよ、簡単じゃんと考える人もいるとは思うものの、それでは社会はどうなのか。
うーん、ちょっとこれも大変にいいにくいことだが、現代日本では家族生活にどこか罰ゲームな要素があるんだろう。そう思っている人がそれなりの数で存在する社会において、疑似家族が幸せそうであったら、嫉妬の対象になってしまうような。世知辛いとひとことですませていいものか…
『ピンドラ』はもうちょっと別な分析が必要かと思う。あの疑似家族の成り立ちに関する部分はまた事情が違う(宗教団体の存在)。「こどもブロイラー」というようなものがある社会(それが現代日本ということではあるが)の中における家族というものを描いているので。
しかし、『スパイ×ファミリー』はけっこう結末が気になってきた。アニメではそこまでいかないだろうけど。
スパイであり父である。
殺し屋であり母である。
今のところスパイであること、殺し屋であることが優先されているが、もし仮に彼らの中でその価値観がひっくり返ったとき、ようは、父や母であることを選んだとき、彼らは生きていくことができるのだろうか?みたいな。あるいは、社会が彼らのその選択を快く祝福できるのか?みたいな。もうすこし踏み込むと、この疑似家族を否定することでしか社会は存立しえないというお話になっていくのか?
数話見ただけで、勝手に盛り上がっているのである。
あとエスパーであるこどもが親の気持ちを読めるという描写は、以前にも書いたように、見ているこちらを悲しませる。非常にほほえましい描写であるはずなのに悲しい。まあ、ぼくはこの描写だけで感動できる。