忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

春アニメ メモなど

 散歩から帰り、掃除をだらだらしながら『SPY×FAMILY』を見たら、こんな時間になってしまった。評判通りで非常におもしろい。

 そういえば、さっきの散歩でうんちを踏んづけた。ぼくは日常で勝ち負けを意識することはそれほどないのだが、今日ばかりは勝ったと思った。そのうんちは乾いていたのだ。圧勝だった。なので、間違えて踏んだ1回だけにして、すぐにその場を立ち去った。何度も踏みつけるような圧倒的力の差を見せつけるまねはできないのである。

 

 『スパイファミリー』について

 疑似家族ものという理解でいいのだろうか。

 疑似家族ものに感じる共通性。社会から疎外された人の集まりとなんとなく思っていたけれど、先日、ブロガーさんのラジオで『ピンドラ』に関する解釈を聞いて要検討と思った。疑似家族が社会と対立せざるえない場合についての考察である。

 このことが『スパイファミリー』にも当てはまるのかはわからない。今後の展開次第である。というか、2回まで見た作風からは悲劇的な結末にはならんだろうという気も。とするとこの作品の主題はなにか?

 そこに着目しながら見ていくことになる。

 

 それと『万引き家族』とかが典型だけれど、疑似家族、すなわち、偽物を描くことを通じて、家族の意味を問い直すみたいなところはあるのだろうとは思う。ただ、ぼくはそういう説教くさい部分はだいたい見逃すことにしている。

 『メイドラ』なんかは疑似家族をやっていけるだけの経済的な裏付けなんかの描写もしっかりされているので、説教くさくないのかも。

 なんか脱線した。

 

 とりあえず、殺し屋とスパイとエスパーという家族構成はおもしろい。

 こどもがエスパーという設定が大事なところか。こころが読めるという設定。ぼくは実はあまり好きな設定ではないのだけれど、ひいとさまにするのも、ひとさまからされるのも、どちらも苦手なこととして、「お前の本心はなんだ?」みたいなのがあるので…

 この作品はちょっとそういうのではない。偽物の父と母のことばのやり取りの不整合に気づいているのはエスパーである偽物の娘だけで、その不整合の上にこの家族は今のところ成立している。

 あと、父の嘘に娘は気づける。

 うまい描写だと思う。なんか見ていると悲しくなってくる。ぼくはなにを悲しんでいるのか?そこらへんが主題なのかもしれない。

 うーん。エスパー設定によって笑いと悲しみを生んでいるのか。

 視聴者視点ではない。

 なんだろ、これ。眠い、これはまた今度。

 

 今期こそは見るものが少ないとか思ったけれど、結局、けっこうな数のアニメを見ることになりそう。『グラスリップ』を見る時間がとれんん。

 

 ブロガーさんがラジオで話していた時間の逆行について

 たしかに時間観に影響を与えてしまうかも。で、そういう変化は一度、遂げてしまうと元には戻れない。

 ぼくの頃くらいから、それよりも少し上の世代かしら、ともかく、携帯を学生でも持つようになり、今のこどもたちなんか、まさにデジタルネイティブで感覚の違いみたいなはあるだろう。

 あれ?話がずれた。ともかく、ぼくは実は携帯がなかったころの電話で話すという行為がどんあものであったか、はっきりとはもう思い出せないのだ。たぶん、話し方なんかも変わってしまったところがあるのではと思う。だって、親に聞かれたくない話とかになったら、家を出て、ちょっくら道端で話すみたいなことになっていただろうし、まあ、もう思い出せん。

 で、時間観に話を戻すと、これはひょっとするとタイムマシーンができてしまったということに相当するのではないか。感覚的には同じことができていると(未来方向にはできてないのだろうけれど)。

 過ぎ去った時間は思い出すことしかできないという当たり前のことが困難になるというのはちょっと迷惑な話だとも思うけれど、便利とどうバランスするのか…

 正確に遡れるものとそれでができないものという違いは残るのか。どちらかが、どちらかの価値を毀損するとか。よくわからんけれど。

 

 携帯の話に戻るとひそひそ話すみたいなことがぼくの場合はなくなってしまった気がする。もとからバカでかい声で話すほうではないけど、なんか、人生のえっちーところを失ってしまったかもだ。別のえっちーところが伸びたかといえば、携帯でリーチできるえっちーもの?視覚に訴えるものはあんましえっちくないような気がする。

 

 携帯はえっちな生活には視覚面でそれほど貢献していないという結論に至った。寝る。