忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

あるアニメキャラに関する断想、身辺雑記など

 キリトと後藤喜一について

 『鬼滅の刃』の炭治郎について書いた際、『SAO』のキリトが頭をよぎった。彼にもまた狂気がある。おそらく、ゲーム「SAO」の制作者、茅場晶彦の最大の理解者はキリトだ。その辺の事情にキリトの狂気は由来する。そして、彼のその部分に対する理解があったのは結城明日奈ではなく、「絶剣」紺野木綿季だったのではないか、とか書いているとSAOファン、とりわけアスナファンに怒られそうな気がするので、異論は認める!まあ、でも、ぼくは『鬼滅の刃』よりも『SAO』のほうが楽しめました。『SAO』のほうがわかりやすさみたいなものはあるのかも。

 で、昨日の話の枠から脱線しそうなので省いたのがもうひとつ。茅場晶彦とキリトの関係性はどうしても柘植行人と後藤喜一の関係性に重ねてみたくなる。(劇場版『機動警察パトレイバー2』)余談になるが、この映画の美点はこれに関連する。柘植のかつての恋人であった南雲しのぶより後藤のほうが柘植を理解しており(理解というより共感というほうが適切かも)、そのことを南雲がだれよりも知悉していた点。

 では、この映画は恋愛映画なのか?といえば、そんなことはない。(一連の「東京」映画作品群のひとつ)

 ということを書いておきたかった。

 ひとつだけ補足。後藤喜一にそれほどの狂気を感じないのはキャラ造形にあると思う。昼行燈。それとなによりも公務員であること。後者は本人も言い訳にしていたはず。

 

 大森壮蔵の心に関する議論を読んで、訂正が必要と思った話

 大森が平易な文体を採用した理由をだれかを理解したい、だれかに理解されたいという願望が根本にあると書いてしまったが、これはいけない。意志的に平易な文体で書いた、とすればよかったのだろうか。

 

 大森の時間論がよくわからない話

 過去について立ち現れるということは大森には時間が流れる感じはるのか?でも、たぶん、流れた時間を失われたとは見ないのだろう。過去、現在、未来は「私」で同時に立ち現れるのも可能?正確に言うと立ち現れる以上は時間感覚として失われるという感じはないか。だって、失われたら立ち現れない?うーん、わからん。時間の流れ(時間感覚)というものと時制意識は別々に考えるということか?でも、そうすると心の問題では分離できないとなっていたはずだが…

 

 ぼくはこういう論理は考えるのは苦手だ。こういう思索に耐えられる頭の人はすごい。考えられない、めんどうくさい先行して、だいたいでいいんじゃねーの?と結論に達したくなる。今回は時間論も関係しているので、苦手ながら、やっている。

 

 一般論として、共通理解を仮構するとそれ以上議論が進まないじゃん問題

 共通理解みたいなものを考えちゃうとおもしろくないと思ってしまう。そこで思索の道が終わるというか、なんというか。でも、そうするより仕方ないのか。

 

 コロナ禍について思い出すことはあるだろうか?

 と思っていたのだが、思い出すかも。なんだったんだ?あれは…みたいなものだけなく、思い出すであろうことが起きた。