忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

わけわからなくなってきたので整理のためのメモ

 『色づく世界の明日から』9話

 この回は前々から匂わせていた山吹将の失恋回。文句ではないけど、たいした失恋ではない。しつこいようだが、失恋なら羽川翼が好き。というか、山吹のことを描いているようで、それはそうであるけど、同時に風野あさぎを描いていたということでもあるのだろう。登場人物全員にそれぞれのストーリーをつくっている。川合胡桃を描くことで深澤千草についても視聴者は知ることになる。

 同様に、瞳美を描くことが琥珀を描くことと同義という見方ができる。

 

 少し前から気になっているなぜ月白琥珀は月白瞳美を60年前に飛ばしたのか?

 祖母として琥珀の視点 高校生の時に孫の瞳美が60年前からやってきたことを知っている存在だから、そのままに実行したのか?魔法で人を幸せにしたいという琥珀の思いとの整合性。SF的整合性よりも気になるのはそこ。今後、そこがわかるのだろうか。

 上記の山吹の失恋についても、おそらく今後、訪れるであろう瞳美と唯翔との別れも琥珀は知っていた。ラブストーリーではないのかもだな。

 実際の主人公は月白瞳美であることは揺らがない。でも、琥珀とダブル主人公という位置づけなのか。

 

 すでに放送済みの作品のため、ネタバレは見ないように気を付けている。

 

 以下、この作品で気になっていること

 ・60年後問題

 ・「金色のサカナ」問題 唯翔を描くことで瞳美を描くことになると予想。もしそうなったら、唯翔×瞳美と琥珀×瞳美の対比とかしたくなるけど…あれ?琥珀は自分では瞳美してあげられることがないから、つまり、魔法では無理とわかったから、唯翔のいる60年後に瞳美を飛ばしたのか?わからん。いい具合にわからん。

 ・瞳美は瞳はなぜ色を失ったのか?また、色は戻ってくるのか?後者はわかりきったお話か…でも、このお話はこの設定がなければ、見なかったと思う。

 

 『白い砂のアクアトープ』について

 ぼくがこの作品を好きな理由がわかった。構成とかいろいろと見なかったことにして、凛然としたくくるのバカさをぼくは好きなのだろう。くくるのような人がいる世界はおもしろいと思う。というか、現実そのものというか、以下略。とお茶を濁すのもなんだな。ぼくもくくるのことをはた迷惑なバカとか言っているが、くくるの頭が悪いとか思っている人がいたら、悲しい。上司の能力について云々という話も見かけたけど、それも変だ。そういうものの見方はいっさいがっさいゴミ箱に捨ててしまえ、と思えてくる。

 見たことないけど、たぶん、『グラスリップ』もぼくの好きな作品なのかもしれない。

 まあ、でも、なんかすこし惜しいと感じる。『白い砂のアクアトープ』も、『色づく世界の明日から』も。青春期の不思議みたいなものが青春期に特有な現象という理解が下地にある感じ。もったいないなと。なんでなんだろう。そういう気分はおそらく多くの人と共有できるってのはありそうだけど、おとなはその感覚を失っている、いや、失うことでおとなになるみたいな。くくるもたぶん、ふつうのおとなになっちゃうんだろうな。それが一番悲しいかもだ。

 あれ?もしかして、そういうアニメだったのか?それなら傑作では?そして、それはぼくの嫌いなタイプの傑作である。なので、違うと思う。

 

 アニメにこだわる話ではないけど、人間ドラマの生む緊張感については、また、考えてみよう。時間感覚のほうはほったらかしているからではある。

 少しだけわかった。緊張感には2種ある。

 ①作品が作り出す緊張感。それを見る側が感じ取る場合。

 ②作品ではなく、見る側が勝手に緊張感を持ってみる場合。例えば、ちっともおもしろくないし、不快なんだけど、なんだかんだ見続けるとき。

 ②のケースはとりあえず無視。作品の話にはならないから。

 

 『メイドラ』のときに感じた。作品のテーマ(主題)とわかりやすさ。いや、『ハルヒ』のほうが例として適切か。ハルヒキョンのことが好き、キョンハルヒのことが好き、この点は非常によく伝わってくる。このわかりやすさ。多くの人がこの作品を愛する理由でもあると思うが、さて作品のテーマとなると?まあ、思いおもいのことが語られることになるだろう。十人十色状態は何を意味するのか?テーマが判然としない。(細かい話をする気はないので、方言気味にいうと、テーマを考えると俄然、存在感を増すのはすでに触れたふたりではなく、長門有希であろう。中島敦『李陵』みたいな話だと勝手に思っている。しかし、古典的な作品からの逸脱が本作の大事なところなのだろう。)

 この話、流行る作品の考察みたいになりそう。ある種のわかりやすさがあると流行るみたいな。おもしろくないな。というのは、それはぼくの考えることではない。

 テーマなんてないよと作者が思っていても、それを読み込んでしまうのが読者?まあ、いいや。

 

 すこし気になったこと。庵野監督作品を語ることを通して庵野監督を論じるみたいなものが山田監督にも起きている?ジブリ作品でもそうだったのか?

 当時を知らないのでちょっと「テクスト論」がまじめに語られた時代のことを思った。なんというのか、世の中には均衡をはかろうとする人があらわれるのではないだろうか。

 

 先日の続き

 大森と廣松に共通する問題について

 ある議論に際して、人間を二分し、その間に架け橋しようとする問題。

 ぼくはやっぱり孤独の問題だと思う。だれかを理解したい、だれかに理解されたいという願望が出発点にあるような気がする。がきんちょの頃なんか、自分でもなぜ泣いているのか、わからんみたいなことがだれにでもあったはずだ。その延長だな。その願望が皮肉にも孤独をつくりだしているのか。皮肉とかいうと語弊があるか。