忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

それを知りたいのはこっちだよ

 『色づく世界の明日から』10話の感想はタイトルのままなのだが、以下メモ。

 この回は「わたしは何をしにここにきたのだろう。わたしの来た意味。」という瞳美のモノローグで終わった。で、タイトルのような感想をもったけど、11話でそこが明かされていくのだろう。

 琥珀は魔法でだれかを幸せにしたいというくらいだから、自身の時間魔法を完成させるために60年前に瞳美を飛ばしたとは考えにくい。なので、たぶん、瞳美と唯翔のためなのか、まあ、そういう感じになっていくのだろう。だとして、やはりなぜ瞳美が出会わなければならなかったのが、60年前の唯翔であるのか、そこは知りたいと思う。

 瞳美が魔法が嫌いな理由は明らかになった。魔法は人を、より正確に言えば、瞳美の母を不幸にするものであったからだ。いや、もっとちゃんと記すべきか。魔法という存在が瞳美の母を不幸にした。うーん、この世界における魔法の負の側面みたいな話ではない。ここらへんはちょっとモヤる。ぼくにとって、(という非常に謙虚な姿勢で申し上げるなら、)瞳美の母は理解不能な存在である。母が魔法を使えなかったことと母の失踪を因果関係として見ることができないのだ。ただ、『白い砂のアクアトープ』や『神様になった日』を見ると、こういう感じが味でもあるのかもしれない。いずれにしろ、ある二つの出来事に因果関係を見出すことへの軽い?軽くないかも?ともかく反発がぼくの中から消えることはないような気がするな…

 琥珀の魔法観にもこの母の問題は影を落とすことになっているのだろうか?ただ、琥珀はこの60年前の世界の時点で魔法が問題を根本的に解決することは不可能、そのきっかけにすぎないと見ているようにも思う。今後も、この点は気にしてみる。(カメラの故障は魔法では直せない、などなど。)

 それと琥珀についてはもうはっきりと描かれていたのだなと今気づいた。高校生時代の琥珀と60年後の琥珀は同一人物に見えますか?問題。これは文句ではありませんよ。人ってものはああいうものなんだといえば、そうなのかもだし。繰り返しになってしまうけど、青春期に特有なあれこれを置き忘れてきちゃうのだろうね。まあ、いいか。くよくよしてもしゃーない。

 

 10話の感想というよりも『グランド・ジャット島の日曜日の午後』について、というよりも点描について。人の目にそのように見えてしまうことを利用して描かれたということなのだろうけれど、じーっと近づいて行って、間近で点々を見ることもその想定内であったのだろう。すると、人はこんなことを考える。自分に見えている世界も実はこのようになっているのではないか?と。ぼくは恥ずかしながら最近、知ったのだが、目の働きで微分して、輪郭が生まれているらしい。(ぼくの誤読の可能性はある。)科学の世界ではきっとかなり前から常識だったのだろう。しかし、この絵からもわかる通り、目に見える現実以上に色彩の明暗、コントラストは強調されており、光の明るさは現実以上に強く感じられるように色彩が配置されている。そこがぼくはおもしろい。絵だからそれができるのだろう。

 脱線してしまうが、眼鏡(レンズ)を通さずに見える鮮明な世界への憧れはあるな…眼鏡をしていなかったころの視覚の記憶んなんてないし。

 それにしても、光への憧れはなんとなくわかる気がする。まさに、季節として今がそれだ。散歩で、日なたに出た瞬間は目をつむっていてもわかる。散歩中は危ないのでそういう歩き方はおすすめはしない。周りに自転車や歩行者がいないことを確認したらいいかもだ。(光の比喩的な意味論をしたいわけではない。ただ、顔面に光当たると気持ちよくて、昼寝したくなるという話をしている。ジョルジュ・スーラも多分、おひさまの下でごろごろするのが好きだったのではないだろうか。絵の感想文でこういうお昼寝の話を書いたら小学生くらいまでは100点もらえると思います。中学生以上になってくる厳しいでしょう。高校生だと先を読んでもえらえなくなるかもですね。なお、点数の保証はいたしません。以上のことから、高校生によってこそ、こういう感想文は書かれるべきということになるのではないでしょうか。読んでもらくえなくなる、その先にこそ大事なことを書くのです!)