忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

先日の続き

 「のじゃ」も「だっちゃ」も方言だと思っていた。「のじゃ」は違うようじゃのう。「だっちゃ」はなにしろこどもころによく聞いていた。ばーさんや、お年玉をくれにこの世に戻ってくれないか、とは思わんが。

 『万葉集原論』でリズムが先行するという話がおもしろかった。散漫な性格なのでいろいろと関心があっちにいったり、こっちに行ったり、いい加減なもんです。

 気になっていた小説も読んでみたかったけれど、ちんたらしていたら、時間が足りなかった。そうか、いつもちんたらしているので、いつも時間が足りないと思えるのかも。

 それと時間の問題は引き続き考えよう。回顧の問題。たしかに、記憶はどのような状態で原体験があったのか、その状況に依存するし、また、回顧する際の状況にも依存するか。

 昭和?の話。仔犬が駅で売られていたという話。うむ。こういうことを書いてしまっていいのか…野良犬が多かったのは、そういう事情もあったのだろうか。といっても、現在のペットの問題は… 

 しかし、まあ、なんだ…ぼくはその時代を知らないから、ちょっとズレた話になるのかもしれない。それでも、なんかもっと雑な社会でも十分にまわっていたのだとするとなんか今の社会の几帳面な感じは際立つし、窮屈にも感じる。たとえば、PCR検査みたいな技術とかも、その几帳面さの表れなのか。人間はおもしおいといえば、おもしろいけど、めんどくせー生き物だな。フーコーの類似と相似の話とか、こういうところに関係してくるのか?よくわからん。分類して、理解するみたいな発想は生活には役立っているのだろう。人間の手前勝手な分類にどれほどの意味があるのかという問いの有効性。わからんな。

 脱線した。時代についていけていないという感覚はこういうものなのか。もしかしたら、こういう感覚はこれまでなかったかもしれない。

 それと大森と廣松の問題もまた考えてみようと思う。時間にも同型の問題があるというのがよくわかっていない。