忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモ

 先日の続き

 人間にとって時制が意識されるにいたったのは近代の擬制か?フーコーを見習って、そう考えてみる。安直すぎるか?その前に近代そのものの理解が必要か?こんなことを書いているのはぼくは近代人の自覚なしに近代人やっていたような気がするからで。

 最近だとデジタルレーニン主義とか言われてもピンとこない。新しい時代の幕開けとは思えんわけで、『PSYCHO-PASS』の世界みたいなもんでしょ?みたいな。で、それでいいなら近代のロスタイムな感じがするんだが。ってか今は近代のロスタイムなの?むしろどこまでも続くよ、近代はみたいな感じがするんだけれど。まあ、あまりこのデジタルレーニン主義には関心がない。

 冒頭で触れた時制の意識と疑似回顧物語は近代的なものの見方から生まれたのか?そのほうが関心がある。『やがて君になる 佐伯沙弥香について』なんかも、大まかな流れとしては、小学生→中学生→大学生と話が進んでいるように見えて、細かく見ていくと時系列は乱されていたように思う(高校生のところはたしか時系列が前後していたはず)。では、なぜそのような操作がされたのか?疑似回顧物語だから?(作品内の順番は沙弥香が思い出した順に並んでいるという読み方)まあ、疑似回顧物語的構造をもつとはいえるかも?思えば、『バッカーノ!』とかもそうだったんだな。アニメでは語り部が明示されていたから違うか?『バッカーノ!』はミステリーと相性が良いからかも?ミステリーも近代の産物。

 

 うーん。小林秀雄の描いた本居宣長って近代人ってことなのか?かれのものの見方って、意識的に行われる作業みたいに感じる。認識論への転換みたいな?哲学史を知らんので、よくわからん。うむ、困った。まあ、なにか宣長にも「秘密なからくり」があって、「もののあわれをしる」とかいってるじゃないのって?

 宣長は保守のご先祖だとかはかなりどーでもいいことのように思うが、上記については暇を見つけて調べてみよう。

 

 今日もまたテキトーなことを書き散らしたようだな。寝よう。