忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

発情したその先を、その他

 発情したその先が気になる

 『やがて君になる 佐伯沙弥香について』のラストは発情したところで終わる。その先が描かれなかったところは少し残念。下世話な野次馬根性的な視線からだけでなく、佐伯沙弥香だからこそ、その先を見てみたい。いや、本音を言えば、ぼくの関心はほぼ後者。自分を偽る彼女はどうなるのか?そこには関心がある。もしかしたら、そこでその悩みは終わりを迎えるのかもしれない?それとも、もっと拗らせるのか?

 

 入間さんの作品『安達としまむら』ではそこが描かれたと聞く。確か、DVDの特典小説?安達の死後の島村にも関心はあるけれど、こちらにも関心はある。そこでも、安達さんは例の口調で「ううん、あんまり楽しくない」とかいってしまうのだろうか?さすがにそれはないか…しかし、そんなことも少し期待しちゃうぞ。一方、島村はどうなのか?そのひとの在り方への関心みたいなものは捨てがたいものがある。

 

 『やがて君になる』原作漫画と小説の比較をするなら

 いや、そもそも比較する必要はないかも。

 ただ、小糸侑と枝元陽、このふたりについて考えてみるのは面白いかもしれない。ふたりとも、自分を偽らないタイプ。作者の違いがあらわれた部分だと思うので。だれかやってくれないだろうか。

 

 日本アニメの表現について

 物語の面白さみたいなものに日本の独自性ってあるのだろうか?

 適当なことばは思い浮かばないが、ぼくの好きな作品の多くに共通するのが「なにかが欠落している感じ」で、それがその作品の空気感になっている。ジャンルとかにはあまり関係がなく、それがある気がする。で、その要因を時代や現代社会に求めるのはどうも違うだろう。ある特定の時代、ある社会だからこそ生まれた作品みたいな見方をあまりしたくない、という意味。例外は『進撃の巨人』?『裏世界ピクニック』は2ちゃんなしには存在しなかったと言えるのかもしれないが、その作品の本質と2ちゃんが無関係なのもまた事実。不思議な作品だな。ぼくは怪談自体も好き。

 

 その空気感みたいなものに関係があるのか、そこははっきりしないが、表現の豊かさみたいなものも共通してある。でも、そのアニメ表現の豊かさって日本アニメの伝統みたいなところもあるのだろうか?ぼくのこどもころのものと比べてみても、今のほうが微細な感じはするのだけれど、どうなのだろう。行き過ぎて、くどい時もあるが…ただ、過剰なコントロールに見えても、今は実写のものよりもその過剰さゆえに好きなっているところあり。なんでだろう。技術としての写真が生まれても、絵が廃れなかったのと同じこと?よくわからん。というか、写真登場以降の絵画がどう変わったのかをそもそも知らない。