忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

昨日の日記の訂正とそこから始まる、なんだろう?

 <この作品とは何の関係ないかもしれないが、ただ、安易な価値観の転倒みたいなことにはならないでほしい。ただ、ひとは生まれ、生き、無意味に死んでいく、から出発して、だからこそ生きることは尊いのだ、みたいな。もしかりに、このような転倒を試みるのであれば、転倒の理路、いや、そうはっきりとしたものではなくとも、描ききるだけの工夫がいるのではないだろうか。あまり、こういうことは言いたくないが、よきことに着地されるために雑な描写で済ませる作品がある。そこに着地させたいという思いは理解できるが、なんだか変なものを食わされた気分になる。(こんなことを書いてしまうのはぼくにもそのような感覚で自分の人生を見てしまうことがあるからで、でも、そこには嘘があるのではないか。嘘がいけないとは全く思わないが、それでも上手に嘘をつかなくてはいけない時がある。まさにその時なのでは?、と思う。)>    

 

 まず、もう少し付け加えるべきことがあった。生きることに意味などない、だからこそ、尊いみたいな発想自体は至極凡庸であること。だれしもが気づいていて、あえて口にするようなことではないため、日常でこのようなことばには出会わないだけなのだろう。大袈裟な話をしているわけではないとの前置きをサボってしまったという言い訳。

 本題は次。この文中の「嘘」は別のことばに置き換えたほうがよさそう。

 「秘密なからくり」として考えてみる。そのからくりをだれしもがこころに秘めて生きているのが、不思議というか、生きることの魅力というか、なんだろ?よくわからん。

 で、話は変わる。いまだに『俺ガイル』や『失われた時を求めて』が疑似回想の物語であることが気になっている。そのことと「秘密なからくり」は関係しているのかも?と風呂にはいりながら思ったのだった。

 「秘密なからくり」の存在をほのめかす疑似回想物語。しかも、からくりであることを暴露はしない。今を生きているひとにとって本当に大事なのは今で、過去ではないはずだ。作者にも読者にもその事情に変わりはないずで、にもかかわらず、疑似回想物語をつくり、読み、感動する。そこには無意識かもしれないけれど、秘密なからくりの自覚があるためかもしれない。きっと、「思い出」ということばもそのからくりから生まれたのではないか?なんだか思い出がこころに温かいもの、じわんわりくるものを届けてくれるという気がするのもそのためだ。

 日常で意識されることのない時制というものが言語に持ち込まれたのはそのためではないか?ものすごくいい加減な飛躍をしてみた。過去、未来は「秘密のからくり」によって生まれるのだ。まあ、ぼくは科学に疎いので、ぼくの思い付きは見当はずれであるかもしれないし、秘密はすでに暴露されているのかもしれない。ただ、秘密が白日の下にさらされたとしても、疑似回想物語の感動が失われることはないだろう。

 言語のようなものをもつ生き物は物語をもっているのだろうか?