忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

寒いような、そうでもないような

 今日は人出が多かった。

 

 見る予定だった最終回をまだ見れていない。ちんたら、掃除していたら、終わらなかった。窓ふきがなかなかの強敵であった。天気がいいとね、ついついよそ見をしてしまう。

 

 永井さんの大森壮蔵に関する論文で廣松に関する議論のところ、ぼくはちゃんと理解できていなかったみたいだ。「パースペクティブの差異」を捨象できない、他我問題においては「私」にだけ、独在性があることは事実として揺らがないという理解でいいのか。ぼくにも、他者にもそれぞれ別の仕組みがあるというのはなんとなくわかるような、わからんような。『見える子ちゃん』はそういう理解の仕方も可能とは思う。3人の世界観が異なるのは、仕組みが異なることに起因すると見なせば、みたいな。でも、「見なせば」というのは文学的方法にだけに許されるのか、否か。わからん。

 このところ、時間論に興味があって、読んでみたのだけど、それ以外の点のついても、おもしろい。ある映画について、登場人物の視点で整理してみたいと思っていただが、そのことについて関連する。主にふたりの視点に着目して、それぞれが一つの会話をめぐっていかなる関係性を構築したのか。少し大げさに言えば、そこで一つの世界を作っているに等しいことをしている。そして、さらに大風呂敷を広げれば、そのうちのひとりが咄嗟に不可解な行動をとり、それは新しい関係性を生み出したきっかけでもあった。よくわからんけど、ぼくにはその行動も、新しい関係性、あるいは世界もとてもいいものな気がするのだ。まあ、その場面を見ているときのひりつき感というあ、圧はぐぐいくるのだけれど…脱線。で、それにプラスして、疑似回顧の問題があって、めんどいとなったのだった。疑似回顧というものも、ぼくのオリジナルの着想ではないため、難儀している。この疑似回顧についてはたぶん、そうとうおもうしろいと思う。というのは、明らかにそう読める作品というものがある。そこから、始まって、そうとしか読めないみたいな迷路にはまる。

 時間のほうは未来についてはほったらかして、過去というよりも回顧について考えている。とりあえず、回顧する際に感情をのせるという感覚は捨てようと思う。しかし、それでも、回顧する際、自分視点で構成される記憶はなんでかしらんけど、自分だけのものという特別感はあって、純粋に無機質なデータとは思えん。かりに、なんの感慨ももよおさないような記憶であっても、そんな気がする。なんなのだろう。

 それと集合的な記憶、たとえば民族の記憶との関係とか。それでさえ、実際にはある個人がある時点で構成した個人の記憶ということになりはしないのか。わからん。

 

 あ、思い出した。廣松渉を読まなかった理由。廣松の本のタイトルから「共同幻想」みたいなお話なのかと思ってスルーしていた。勘違いというか、無知というか、いずれにしろ、われながら、ひどい話だった。しかし、対幻想という概念の創出はすごいもんだなと思う。それでぼくはアニメでも、小説でも、まあ、なんでもかんでも随分と楽しく読めるようになった。それだけじゃないな。対幻想だけでなく、いろんなものを教わったと思う。作者についての理解という点でも。まあ、その部分ははっきりとは言及できるようなものばかりでもないのがややこしい。

 

 遠藤周作の遺稿の話をいつだったか、テレビで見た。

 年末は気になっているアニメをごろごろしながら見たい。あと、いくつか気になっているラノベも読みたい。

 

 犬に送る歌

 いもとチキン食べてひと眠り

 あすもきっと空元気

 

 ということで、明日こそ、ちゃんと掃除するのだ。

 カルピスソーダマスカット味がマイブーム。