忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

なんで今?と思ったら

 『千と千尋の神隠し』がなぜ今、話題になっているのか?と。

 再放送があったのか、と納得した。他作品との遊郭の描き方の違いで話題になっていたわけではないらしい。

 ぼくは見たのはだいぶ前なので、もうあまり詳しくは覚えていない。

 ただ、この映画も、他のジブリ作品と同様によくわからないところがあった。その話を少しだけメモに残しておこう。

 

 千尋(千)という女の子についてよくわからない

 宮崎駿作品というよりもジブリ作品の共通項、女にだけ宿る力問題。これをわからないようじゃ、おれたちとの文学勝負には勝てないぜと挑戦状をたたきつけられる気分。まあ、勝負というのはちょっとおおげさだったかも。

 千尋とハクの対幻想という理解から出発してみる。問題はハクが共同幻想であるのか。そうであるなら、まさに共同幻想を対幻想の対象にできる遊女の話という理解が可能になり、舞台が湯屋である必要につながる。しかし、それにしたって何の話なんだ?という問いは残る。

 もうひとり千と似たような立ち位置にいる女性が出てくる。ふたつの人格に分離するばーさまであるが、現実と理想の板挟みにあったひとりの人物という解釈。このばーさまは呪術の力を利用して、ハクとの対幻想は生まれた。(記憶違いかも?)

 ハクがばーさまから千にのりかえる話?ハクは昭和の二枚目だったのか!んなわけないか。(ぼくの中で昭和の二枚目はそういう感じです。平成では純愛になります。令和はしりません。昭和もよく知らないけれど、知ったかぶりです。)

 最初に見たときの記憶はもうないけど、それ以降は千はばーさんみたいになってくのだろうと思って見ていた。現実と理想の乖離に千尋もこれからの人生でぶつかるのだろうと。こんな予感を誘うというだけでも、すごい作品だ、とぼくには思える。

 

 ハクとの記憶がお世辞にも美しくない

 これはなんなのだろう。先述の問題よりも理解できない。川での思い出というなら、もっと素敵なものにしていいようなものなのに、たしか、川に靴をおとして、おぼれ、そこをハクに救われたみたいな話(しかも、当時、ハクに救われたという認識はない。)だったような気がする。

 まあ、この思い出、逸話によって千尋共同幻想を対幻想の対象に選べる存在であることを証しするといえるかもしれない。であるがゆえに、千尋の初恋はやぶれるが、ハクを解放する力を宿せたという解釈を導く。

 大事なポイントはこの原体験がその後の人生に功利主義的な意味で役立つようなものではないところだろう。川に勇気を振り絞って飛び込んで、何事も怖れずに挑戦する大切さを学びましたみたいな話にはならないのだ。むしろ、ともすれば恐怖を喚起しそうな、忘れたい記憶というほうが近いくらいだ。描きようは様々にあったとしても、この逸話にする感覚。びしびしと伝わってきますね。文学センス。

 誤解なきよう付言すると、ほめことばではないですよ。ちょっとげっぷがでそうと思えるので。もうすこし踏み込めば、もっとストレートにてらいもなくボールを投げてはくれまいか、と最近のアニメに接して以降は感じる。どっちの作風が優れているというお話ではない。ただ、ぼくは最近のアニメの全てとは言わないが、泥臭い感じがとても好きだ。

 『千と千尋の神隠し』をほめているようで、あまりほめていない感想文は以上です。つーか、すでに述べたように理解できないところがあって、何をほめたらいいたのか、わからんところがあるのです。それでも、この感想を残しておこうと思ったのは、アニメ史が編まれるとして、宮崎作品は残るだろうけれど、それ以外の作品だっておもしろかったんだぞという記録を残しておこうと考えてのことだ。

 

 ※文春オンラインに『千と千尋の神隠し』についての素晴らしい解説記事があるのを今さっき確認した。その中で、宮崎監督自身が湯屋を舞台とした背景について語る引用を読んだ。監督の現在?当時?の社会観を反映したものらしい。

 困った。

 とはならない。ぼくはそもそも作品のもつ社会批評性を多くの場合、捨象して理解につとめるからだ。また、そればかりでなく、上記のように理解されることを監督も想定していると思う。他作品を見ても、網野史学の影響を隠していないので。