論点ずらしについて、その他
論点ずらしについて
昨日、『やがて君になる』の劇中劇?作中劇?について書いていて、おもったこと。
自己同一性は記憶によって担保されるのか?という問いへの直接的な解答を避け、関係性の問題として捉え直し、本作では解答を提出していた(と記憶している。)
これは論点ずらしなのだろうか?まあ、そうかもしれない?
それでは、つまり、論点ずらしであることは作品の瑕疵になるのか?これはならない。むしろ作品の主題からすれば、記憶云々に焦点化されるほうが違和感があるからだ。
あれ?もうちょっと整理しないと、そこまでは言えないか。
作中劇の主人公は早世した燈子の姉をモチーフにしていた。というのは一緒にいる人によってさまざまな顔をのぞかせる多面的な人物として描かれており、それに燈子は姉の死後、数年たってはじめて気づいた。燈子は姉になろうとしたが、いったいどの姉像を選べばいいのか、路頭に迷っていたのである。燈子の姉にまつわる記憶に揺らぎが生じたという理解でいいだろう。この点では記憶の問題も作品を構成する大事な要素と言える。
ちょっと読み直してみよう。
あらすじも忘れてる。
脱線してしまったけれど、論点ずらしは物語の語りの中では起こりえることだろうと思う。最近?ある種のディベート術がはびこっているように見える。それで気になった。放言しちゃうと、形式化されたことばの応酬ほどつまらぬものもない。それ、論点ずらしですよね?みたいなの。人間はバカで、基本的には屁理屈をぶっこく生き物だという基本的認識から出発すると、論点ずらし批判に対する防御術も形式化され、ますます硬直したことばのやりとりになってしまうような。
それとこれは以前も書いた気がするけど、小論文のテストとかで出題がつまらなさすぎて、書くことがない、困った…ってとき、その場しのぎにぼくは今でいう藁人形論法をつかっていたと思う。しょーがないじゃん。問題がおもしろくないんだから、といいわけしたくなるぜ。つまらないというか、関心ないこと聞かれたら、そんなこと考えたこともないわけで、その場で屁理屈つくるには実際上、そうするより他ない。
やっぱ、これはいいわけか。まあ、いいや。
陰謀論について
いつだったか、2.26に関する新資料が見つかったということで特番をやっていたが、資料の裏付けなしであったら、まさに陰謀論みたいなお話をしていたぞ。
2.26の実行犯の動きを詳細に察知にしながら、ある程度、泳がせていたみたいなお話だった。しかし、こういうお話は経験と勘の鋭さがあれば、推測できた人は今までにもいただろうとぼくは思った。どーでもいいことではあるが、ぼくはすごく鈍感であるため、こういう推測はできない。というか、政治闘争で生き残るにはある種の勘所って大事だと思うけどな。ぼくは闘争なんてしたら、すぐ死んじゃうと思う。
ああ、いきなり脱線した。
まあ、陰謀論とあきらかに即断できるケースを除けば、そんな簡単な話じゃねーよって思う。オデッサの件も日本のメディアはどう過去に扱ってきたの?あるはスルーしたのか?AFPは扱っていた。
歴史のお勉強で陰謀論に目覚める?そういうことはあると思う。
じゃあ、『大東亜戦争肯定論』は絶版にしたほうがいいのか?今は文庫になっているのか…
偏向した歴史観とか、思想も排除したほうがいい?
なんか無茶苦茶だな。
ところで皇室に理系の研究者が多い理由はぼくはそれがあるからだと勝手に思っていたのだけど、違うのか。
とりあえず、『進撃の巨人』を見て、落ち着くしかないな。エルヴィンはたまたま明かされただけで、陰謀論の与太話をしている人でなくなったのは偶然にすぎない。
※古文漢文につづき、歴史不要論もでてきたのか…教育論ならぼくは関心がないな。そういう流れとは関係なく、ぼくは歴史というものを意識する。歴史意識というか、歴史感覚は大事だと思う。
日常にある権力性と国家
やっぱ対幻想という着想よりいいものをぼくは思いつかん。
『ユーフォ』は部活動の話をしているようでそれ以上の広がりを持っている。
斎藤葵の挙手と中世古香織の挙手の違い。ここは考えてみようと思う。
まあ、でも斎藤葵の挙手に意味付けするのは無粋か。中世古は自己の存在証明という理解でよさそう。私はここにいると。あれ?違うか。まあ、でも自分のために挙手している。
それにそのふたつの挙手のもつ意味が異なるから、その後の流れも違うのだろうし、対比する見方は間違っていないと思う。
大事なことを書き忘れた。
『リズと青い鳥』ではそこは端折っていた。
どっちもぼくは好きです。