忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

「百合」について

 これまでぼくは男性を恋愛、性愛の対象として愛する、あるいは愛されるということを全く考えてこなかったけれど、その可能性に気づかせてくれた「百合」作品に深く感謝している。そうしたことを踏まえて過去を振り返ってみると、ぼくはちょっと胸が痛む。例えば、ぼくは男子高校に通っていて、同じ学校の男性を好きなることはなかったが、もしかしたら、同級生の中にはそのような恋愛を指向していた人がいたかもしれない。ぼくはそうした可能性に気づかずに日々過ごし、きっと配慮を欠いた言動もあったに相違ない。多様な恋愛、性愛の在り方というものがぼくの中には存在しなかったのである。

 『やがて君になる』という作品に出会い、ほぼ関心を失っていたはずなのに、自分自身としてはかなり意外な形で副産物としてではあるが、社会と向き合うきっかけを与えられた。実は、その作品の内容を事前には知らずに見始めて、少々、良い意味で驚いた。今どきはこういうものをアニメでやるのかと。ただ、見ていて感じたことは特に「百合」というものを意識する必要もなく、鑑賞に堪えうる作品ということだった。でも、この認識については後に間違っていたと気づく。「百合」であることは非常に重要なポイントだった。

 「百合」作品が実際、どのように受容されているのか?ぼくは調査をしたこともないので、ブログ、ツイッター巨大掲示板を見た印象でしか語れない。それぞれのひとがそれぞれの価値観で多様な受け止め方があっていいように思う。そのことをまず断った上で、自分が現在どう受け止めているかを述べていきたい。

 まず、「百合は尊い」というような見方をぼくはとらない。なにか「百合」だけが放つ独特の高貴さというなものがぼくには感じられない。同性間の愛であることを根拠にひとりの人間がひとりの人間を愛する、そのことになにかしら特殊な価値を付与してみようとは思わないのだ。あれ?さっき、「百合」が重要なポイントといったのにもう矛盾したことを述べていると思われるかもしれない。そう、結論を急いではいけない。詳しいことはことは後述する。(断言するには慎重を要するが、描写という点において同性愛、異性愛に差異はあると思われる。しかし、この点については現在のところ、まとまった考えがあるわけでもない。)

 次に、ホモソーシャルな視点から楽しむということもしない。『安達としまむら』放映時、掲示板を覗いて絶句してしまった。安達に思春期の青年を重ねてみるひとが意外と多いことに。男子高生が「安達ってまんまおれたちだよなー」みたいなノリで見ているのだ。ひとの楽しみ方を邪魔しようとは思わないが、そのような見方は結局、これまでもたくさん作品化されてきた異性愛ものと同一視することになりはしないか?結果、社会に多様な愛の在り方があることを知る機会を自ら閉ざすことになりはしないか?それでは勿体ないとぼくには思える。繰り返しになるが、安達というひとりの人間が島村というひとりの人間に恋をする話と解釈した。

 ただし、商業的な側面を見れば、そう悪しざまに言えないかもしれない。きっと、そのような見方がなされることを見越して、キャラクター性を構築した結果、多くの視聴者を獲得した面もあるのだろう。客層の間口を広げる効果はあったのではないか。しかし、それはぼくの任ではなく、あくまでも製作者の考えることだろうし、あまりにもあざとい場合には、好き勝手な感想をこれからも述べさせてもらう。ちなみに、『安達としまむら』の安達のキャラについては鼻につくところはなかった。ぼくにはごく普通のちょっとぐうたらな女子高生にしか見えなかった。ぼくが女の子だったら、「思春期」という共通項ではなく、「ぐうたら」という共通項でくくって、あんな感じかもしれないとも思ったし、なんと島村にも同様のことを感じた。余談になるが、『やがて君になる』における槙聖司も商業的な意味で機能していたように思う。次のような指摘をツイッターで見かけた。恋愛劇の観客である彼の存在があることで、ぼくたち視聴者もこの物語をよく見通すことができたと。言われてみるとそのように思える。彼の存在を介すことで、この手の作品の初心者であるぼくが見続けることを可能にしたと言えるかもしれない。

 実はもうすでに「百合」であることが重要な理由については述べてしまっている。思い付きで書き始めてるので、構成というものが端からない。

 これまであったような異性愛を描く恋愛ものではそれを射程におさめることはできないが、「百合」にはそれができる。では、それとは何か?社会に様々な愛の在り方を示すことだ。常日頃、社会に対する作品に込められたメッセージは受け取らないといっているくせにこれは受け取ってしまった。言い訳をするなら、安易な社会批判の文脈におかれた作品ではなかったからだと思う。愛の物語が「百合」を題材としたことで社会性をいつの間にか帯びつつも、それを強く自己主張するわけでもない。作者の意図するところか、どうかは判然としないが、「百合」作品の内容ではなく、存在自体が社会批評になりうる。だからこそ、ぼくのようなひとに響いたのかもしれない。

 このことに気づいたとき、ぼくは不意に、あるいは、不本意ながら、不承不承、社会と向き合って生きていこうと思えたのである。単純な人間なので、多様性を感じるとなんだか楽しそうなのだ。それまで面白みに欠けた社会が違って見えてきた。ぼくにも島村のように「バカで、奔放で、無防備で」軽薄なところがまだまだ残っているのかもしれない。そのことが恥ずかしくもあり、恥ずかしくもなし。だが、しかし軽薄であっても、本気ではあるのだ。

 それはそうと、ぼくに負けず劣らず軽薄な?ひとたちが「正しいとされていること」への強迫観念からか?「変わる男たち」というイベントを企画していたと聞く。まさか、ぼくが先日、日記で書いたようなホモソーシャルなノリでやる「総括」合戦の反省会のようなもではないよね?いや、まあ、そういうノリでやるなら、見事に大炎上するところからスタートしてみてはどうだろう?ただ、きっと間違うところからスタートするみたいな無様な格好を世間に晒すことはしないか。ぼくには関係ないとはいえ、彼らも本気なのだろうから、どうぞご勝手に頑張ってくださいとしかいいようがない。余計なお世話は承知で少しだけ書こう。男たちだけ集めて話をするにしても、参加者の構成が大事になると思う。カミングアウトの必要はないと思うが、同性愛者の参加は必須だろう。

 そうしたイベントとは一切関係なくぼくの考えを述べるなら、男女の性差別のない社会を目指すだけでは駄目だと思う。多様な愛の在り方を尊重できる社会も同時に目指さねばならないのではないか。後者についてより具体的に言えば、ぼくの場合、明日電車で目があった男性と恋に落ちるかもしれない、その可能性を自分の中で否定しないこと。たとえ空振りに終わったとしても、ぼくはまずここから始めてみようと思う。そして、そんな社会が訪れたら、ホモソーシャルなノリに閉口する場面が減っているといいなーというごく個人的な希望的観測をしている。

 いずれにせよ、ぼくのような偏屈な人間には愛の問題に限らず多様性のある社会のほうが今よりもさらに生きやすいのだろうという予感がある。

 さらに、余談になるが最近初めて『星の王子さま』を読んだ。花、きつね、人間といろいろ出てきたが、これらは比喩なのか?ぼくはそうとは受け取らなかった。

 

 追記 ぼくの好きな作品の魅力がこれっぽちも伝わりそうにない文章になってしまった。困った。