忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモ

 軽薄ではあったけど、自分の意図したことではないとはいえ、世の流れにそこそこ迎合するような形で百合作品に接してきた。(世の流れにそこまで関心があるわけではないので知らずにという意味で結果的に迎合していた。)それに関するメモ。

 

 ノンバイナリーということばも最近、知った。だいたいの人はノンバイナリーで、ある条件下で男性性なり、女性性なりがおもてにでる、あるいは、ロールプレイとして男性とか、女性をやっているだけのような気がする。自分はどんな時に男であること/女であることが意識にのぼるのか?生活の中でほぼそんなことを意識していない。まあ、ひとさまのことを知らんけれど、自分はそうだ。が、そこで終わらない。たとえ生活の中であまり意識することがなくても、根本的な性差がまずあって、ある条件下で顕在化する。その差をなくし、均質化することが可能とはぼくには思えない。そうでないと女性主人公作品にある特有なおもしろさは生まれないだろう。小糸侑が男だったら、ああいう話の流れになっただろうか?、とお茶を濁す。これ以上、このお話は進めないでおこう。(<おとこ>幻想とか<おんな>幻想みたいなお話ではない。むしろ、そういう幻想はないのではないか?という話になるのかも?あったとしてしても、無視できる、そうしてしまって差し支えないのほうが正確か。)

 先述した内容から話はズレる。性愛の問題。異性愛は結果的に異性愛になっていると確信できるケース、好きになった人がたまたま異性だったと言い切れるケースがほぼないのだろうな。世の中、異性愛ということになっているから、異性愛をやっているんですという感じか。というか、それだから、そもそも、好きなった人がたまたま異性であったという発見自体がない。おそらく同性愛ではそうならならないだろう、と思える。(念のため、同性愛と異性愛の優劣をくらべているわけではありませんよ。違いがあるという話をしているわけです。で、そのたまたま好きになった人が同性であった場合にだけ、その発見が惹起されるという違いはおおきいものだろうと今のところは思っている。)

 どんどん話はズレていってしまった…先日、見た邦画のことが気になっているのだ。

 

 上記の内容に触れる作品かは知らないが、『スローループ』も『佐々木と宮野』も楽しみにしている。

 

 『進撃の巨人』のアニメもいよいよ最終章。この3人組は男2と女1だったが、男1と女2だったら、どうなっていたのだろう。(たとえば、エレンが女だったら?あるいは、アルミンが女だったら?)マーレ編の主人公を女にしたのはそうしたことを考えてだったのか。この作品は男であることの意味、女であることの意味は非常によく出ていると思う。一対の男女における男と女として見たとき、という但し書きが必要だったかも。また、本作では一対の男男の場合も、同様。あまり差しさわりないほうのネタバレをしちゃうとアルミンもエレンもぶん殴り合いのけんかをしたかったんだろう。お互いにあのような形を望んでいたようには見えないところは泣ける。思い出した。この場面はすでにアニメでも終わっているので問題ない。