先日の続き
語弊のある書き方をしているつもりはなくとも、誤解を招くだけという結果になりうるかと思い、先日のメモを直そうと思っていたのだけど、若干の補足をだけをしてそのまま残しておくことにした。
ついでなので、『共同幻想論』を読み直していたりしたのだ。
それとは直接のかかわりはないが、ぼくはすこし吉本の性意識について誤読していたかもしれない。彼は漱石論で、漱石には均質な性意識の世界がまずはじめにあって、そこへ女性性、男性性が入り込むという見方を示していた。が、この均質な性意識の世界をぼくは今風のことばに置きなおして「ノンバイナリー」と最近、再解釈してみたけど、たぶん、間違い。先日の議論に重なるが、性差がまず厳然とあると吉本も考えていたはずで、そうでないと彼の着想である「対幻想」は成り立たなくなると再読してあらためて思った。そして、日本の過去が母系であったか、、男系であったかはどうでもよいという主張とも背馳しない。
いつものごとく脱線してしまった。とりあえず、吉本が漱石に見出した性意識の在り方は吉本自身の性意識でもあるとぼくは読んでみたい。
なので、彼が晩年、武田泰淳と飼い猫のフランシス子に言及したところ。ここの解釈。ま、とりあえず、ほっとく。
『テスラノート』はそう考えると、主人公が女性であった意味はよくわからない。そのよくわからなさに意味を見出していいのかもよくわからない。
ジブリアニメを全部見直して再考する気は起きないので、なげやりな書き方になってしまうが、主人公が女性であること自体に意味がある。女は共同幻想を性愛の対象にできるというお話。
そういえば、『鬼滅の刃』の遊郭篇がどうのと話題になっていたが、『千と千尋の神隠し』ではだれも問題にしていなかったし、ぼくは当時を知らないが、『おしん』でも問題視されていなかったのであれば、なんなのだろうか。
冬アニメは『スローループ』しか見れていない。
タワマン文学をひとつ読んだ。ぼくが誤読をしているのか、作者が男を誤解しているのか。東大女と青学女(主人公)で男が選んだのは青学女。これは男から見て扱いやすい(裏を返せば、その男は女から見て扱いやすい)みたいな話ではないとぼくは解釈する。後にそうなるか、どうかとはかかわりなく、その男は母になった姿を想像しただけ。なので、学歴もその意味で関係ない。であればこそ家族はきもいんだと思うぞ。と書くぼくがきもいのかも。