忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

「百合」について 補足

 先日書いた日記を珍しく丁寧に読み返してみた。その結果、自分の好きな作品について書いたはずなのに、その魅力がちっとも伝わりそうにないことに驚き、これはどうしたものかと、再び筆をとってみた。

 さっそく前回の内容と矛盾することになるが、『やがて君になる』についても『安達としまむら』についても最も魅かれた点は「百合」以外のところにある。(なので、先日の日記では一応、「副産物」と明記したのだが…)そして、その点とはある種の文学のもつ性質ではないかと考えている。

 前回の記事に連なる形で話を進めてみよう。かりにありとあらゆる多様性が実現し、貧富の差がなくなっても、ある種のひとたちは文学を求めることを止めない、そんな直感がぼくにはある。これはどんなに満たされても不平を言う「贅沢な悩み」と揶揄されるような性質のものではないという直感も同時にある。正確には願望混じりの予感といえるかもしれない。「百合」ということばがこの世からなくなり、記号的に消費されることがなくなってからが本番、それ以後も『やがて君になる』と『安達としまむら』には残り続けてほしいと思っているのだ。

 わかるやつにはわかる「ブンガク」みたいな話をしているわけではない。うーん、不用意にややこしい問題に足を突っ込んでしまったかもしれない感。なんと言えばいいのだろう。

 別の方向から考えてみよう。村上春樹を「いい人」代表として受け止めているのなら、今の日本社会は控えめに言って病的だと思う。いわゆる「いい人」ではない。『かえるくん、東京を救う』を書く一方で『納屋を焼く』を書く、そういう小説家なのだ。人気作家ゆえに幻視されるのは仕方ないことかもしれないが、『納屋を焼く』を書ける作者であることを忘れてはいけない。そして、そのような作品に感応する読者が存在することが文学の不思議さでもある。まあ、なぜこんなことを書きだしたのかといえば、最近『テクストから遠く離れて』を再読しているからなのだが…思い出したのだ。ある種の文学のもつ感触を。この感触は『やがて君になる』や『安達としまむら』にもある。

 なので、わかるひとにはわかる「ブンガク」と自慢げに、あるいは誇らしげに語る話ではない気がするのだ。ささやかな連帯の意を込めて残念ながらと言ってしまうが、ブログ等で『やがて君になる』や『安達としまむら』について言及しているひとはその感触に触れた思いを書いているのではないか?そんなふうにぼくには見えた。

 それと、ちょっとだけ勇気を出して書いておこう。たくさんの本を読んだ末に会得される感覚ではない。経験を積めばわかるようなものではないともいえる。無論、その経験とは読書経験だけではなく、いわゆる「人生経験」を含む。と書いてみたものの、よくわからない。こどものとき、そんな感覚はあったのか?いつごろからなのだろう。特に記憶に残っているわけでもない。

 あれ?魅力を伝えようと思って書き始めたのに、どんどん違う方向にいっているような気がする。気のせいか?なんなんだ、これは。でも、作品に感じる魅力を素直に書いた結果なのだから、仕方ない。が、他に書きようもあったかもしれない。

 余談。今クールのアニメでそのような感触を楽しめるのはぼくの見た限りでは『裏世界ピクニック』だった。数話進んだ地点から振り返ってみると「この変な女(仁科鳥子のこと)」という紙越空魚のことばの響きはどこか寂しい。

 

 さて、おなかがすいた。ご飯にしよう。