夕飯を食べて眠くなってきたのでぼちぼち考えた
陰謀論について
『進撃の巨人』のエルヴィンは結果的には陰謀論にはならなかったが、そうなっていてもおかしくはなかった。そのことを思うと、陰謀論なんてバカくせーとは思えん。以前にも日記で書いた記憶があるが、陰謀論に取りつかれるってことはぼくにだってありえそうだし、気づかないうちにもう取りつかれているのかもしれない?
ジャンル的に関心ないため、ネット右翼にはならないかもだが。
うーん。なんというか、本なんかでも、出会うべくして出会ったといっていような読書体験もあるし、アニメなんかでも、そんな作品はあるような。とすると陰謀論も、当人にとっては事後的に出会うべくして、出会ったといえるようなもののような気がする。
ぼくなんかは結局、ひねくれたところがあるから、勘違いじゃね?と思ったりするんだが…
最近の世相について
道徳感情をたきつけて、正義が暴走するというよりも、正しいとされる社会規範への迎合になっている気がする。でも、本来、正しくあろうとするはどこにも問題がないわけで、なんなのだろう。よくわからんな。
これは、日本だけでなく、アメリカでもそうなのかと思った。『スーパーマン』の路線変更なんかはまさにそれではないだろうか。ぼくは当事者ではないので、あんまりいい加減なことはいえないが、ちょっと人をバカにしていると思った。当事者の人たちが怒っていないのであれば、ぼくのことばは余計なものになるかもしれないが…
それとぼくは『スーパーマン』をみたことがないので、「スーパーマン」がなにかはよくわからない。
しかし、違和感はあるな。そういう時代だからそういう作品にします的。
ちょっとこの問題は継続して考えよう。というか、いわゆる百合作品に出会って、ぼくの感覚はだいぶ、変わった気がするし。
結局、今でも不思議なのはなぜぼくは同性愛にならなかったんだろうってことだ。変な話だけれど、今になって思い返してみると本当に不思議だ。特に根拠もなく、ある方向に流されていっただけのような気がする。
うん、やっぱり『スーパーマン』の路線変更はおかしいと思う。すくなくともそこはセールスポイントにはならんだろう。その問題を主題にした『スーパーマン』ならその限りではないかもしれないが、それを『スーパーマン』でやることの意味。
ぼくが感動した作品はその部分に焦点を当てなくても、十分におもしろかった。それでいて、そこが主題でもあった。