忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

ぼんやりとひたってしまう良からぬ思索の記録

 夜道を散歩してきた。月明りに照らされた桜はきれいで道に迷ってしまった。というのは嘘で、電燈に照らされていた。

 昼間の桜ほうが好きだ。

 

 今日の記録は散歩のついでに考えたものではない。昨晩はなかなか寝付けなかったので、そんな時にやってしまう良からぬ思索のメモだ。

 

 ①だいたい人は心理的ハードルの低いほうへ流れる

 今だとロシア人としてよりもウクライナ人として戦うことのほうが想像しやすいのだろう。いくら何でも安倍さんの発言に触発されて、日本人がウクライナ人の視線に自分を重ねたなんてことはあるまい。

 少し前の話になるが、「親ガチャ」ということばをネットで目にしたし、情報番組?ニュース番組?でも耳にした。「親ガチャ」というものは確かにあるだろう。それでは、「国ガチャ」は?

 今の国際情勢を見て、そこで恣意的にウクライナ人の視点に立つ選択に「ガチャ」の含意である偶然性が消えたように見える。なんなのだろう?と思う。

 もうちょっと例を書き連ねてみよう。「時代ガチャ」というものもある。大雑把な中世と近世とかで区分けしてもいいのだが、ほんの数年の差でおかれる状況がおおきく異なる場合もある。今日は後者の「時代ガチャ」を例として挙げる。(「生年ガチャ」という名称のほうがよかったように思う。)

 このところ、昭和の戦争時の「特攻」について日記に書いた。『ユーフォ』を見ての感想なのだが…その感想に少しだけ関連した話題になる。

 特攻隊員として散華することと特攻隊長として若者を鼓舞し、空へ飛ばし、最後には自分も後を追うこと。このふたつのうち、多くの人はどちらの視点に立つのであろうか?すこし、いじわるな言い方をすれば、どちらの視点に立ちやすいか?

 心理的にハードルの低いほうへ流れたくなる気持ちはわからないでもないし、ぼくにだってそんなときはある。

 でもなあ、昨今、話題になった「ガチャ」ということばが含むニュアンス、偶然性、この世界のはらむ不条理を見失いたくない。というか、ぼくが忘れようとしたって、その不条理は世界から決して消えない。それなら、せめて耐えようじゃないかみたいな。

 こういうことを考えて、眠れないもないと自分でも思う。

 

 ②プーチンさんの誤算

 これはたんにぼくにはわからないお話。

 キエフの攻略が遅々として進まないため、プーチンさんに誤算があった。予測が甘かったということなのだろうか?そう主張するには前提がある。プーチンには、当初、キエフを占領する意図があったという前提があることになる。

 その前提の正確性を素人のぼくには判断がつかないというお話。

 まあ、こういうのはよくある。

 ある議論が前提とすることへの理解が自分にはなくて、書いてあることとか、話していることが理解できないケース。『鬼滅』が流行った理由とか、なにかで読んだ気がするが、なにが書いてあるのか、ぼくにはわからなかった。あれ?『鬼滅』が女性の間で流行った理由だったかも。忘れた。

 現代日本社会は××だ、だから、流行ったとか、今の女性は××だ、だから流行ったというような構成のお話になっていた気がするが、その「××」を前提としており、そこの正確性がぼくにはわからないので、わけのわからんお話を聞かされた気分になる。

 おもしろくないとは言えないものの、理解できなかったお話はだいたい、すぐ忘れる。

 

 ③男女間の恋愛を描くのは文学として古い?

 こういう話題が最近、はやっているのだろうか?

 ぼく自身は 巷間でいわれる「百合作品」のファンである。でも、男女間の恋愛を描いているから古いと感じるか?といえば、そうでもない。

 ある種の恋愛小説が文学としておもしろくないというお話なら、そうかも、とは思う。恋愛あるあるの羅列みたいなお話は退屈なので。

 とこの間まで思っていたけれど、「あるある」であっても、つまらないと言い切れるものでもないと最近、考え直した。

 星の王子さまとキツネのやりとり、そこで話された内容は「あるある」といえば、そういえなくもないけど、いくら考えても答えが出ないような底の深さがあり、ちょっと怖い感じもする。これは本当にこども向け?と。

 まあ、でも作者が幼いころの親友に向けて書いたと言っているのだから、そこは素直に受け取るけど。

 要は、同性愛を描こうが、異性愛を描こうが、主題次第で、仔細に見ていくしかないような気がする。

 

 と書いておいて、なんだが、同性愛と異性愛の違いはあると思っている。

 女が女を好きになったとき、あるいは、男が男を好きになったとき、そこには発見がある。自分は同性が好きだという発見である。異性愛においてはそれがない。そして、おそらく、この発見は世界への背理としてあらわれる、と同時に、あるいは、それゆえに他者の視線を意識するようになるのではないか。で、その他者に好きになった相手も含まれる。その好きなった相手が同性を愛する保証はどこにもないからだ。

 背理とか書くと怒られそうなので、もっといいことばがあるかも。ただ、そういうニュアンスは読み込める。いずれは、その感覚自体が世界から消えるといいような気もするけど、どうなのだろう。ちょっと、よくわからなくなってきた。

 それでも、同性愛を描いているから、感動するという部分もあるし、「同性」のところをとっぱらって「愛」を描いているから、感動する部分もある。どっちもあるんでねーの?と。自分で書いていてもわけわからん。

 

 ※コーヒーを頼むとき、「なしなし」と付け加えていた友人を思い出した。この「なしなし」は死語だろうか?よく知らないけれど、この「なしなし」は砂糖とミルクか?

 マックには確か「だぶちえるえる」という専門用語が昔はあった。

 マックで「ハンバーガー、あるあるで」で注文すると、その「あるある」はチーズとパテということになり、ダブルチーズバーガーが出てくるということにはなっていよね、と妄想した。