忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

スルー能力が低いので

 たまたま目にしたニュースについて

 まず何から書き始めよう。

 暇を持て余すとごくたまに先生が遊び来ていいというものだから研究室にお邪魔していた。今にして思うと社交辞令であったのだろう。ぼくはそこらへんは鈍感なので当時は気づかなかった。で、ある日、どういう話からか、党派性の話題になった。ぼくが学生の頃はもう左翼は流行っていなかったので、正直、ピンとこない話を延々とされている気もした。面白くない話といよりも感覚的にわからない話。でも、ぼくのほうが間違っていたのだと今になって感じる。いまだに党派性は根強く残っている。

 

 このところフーコーの『言葉と物』を読んでいた。

 直近の目標として「類似」と「相似」の整理とかしていた。

 ぼくは決して物わかりの良いほうではないので、とにかく理解するまでに時間を要する。あわてても仕方ないので、じっくり読もうと決めた矢先にあるニュースを目にした。日頃からのぞかせてもらっているツイッターの方のところで知った。内容には特に触れないが、フーコーに関するニュースだった。触れないと言ったが少しだけ書いておくと決していいニュースではなかった。

 さて、そのニュースを知って、ぼくはフーコーを読むことは止めるか?

 特に学問として読んでいるわけでもない。そんなぼくは読むことを続けようと思っている。我ながらひどい話だとは思うが、好奇心は捨てがたい。そのニュースに対する好奇心ではない。著作を読むことに対する好奇心だ。

 ただ、そのニュースが頭をよぎりなら、読むことになるのだろう。

 もとから、これはフーコーを読む場合に限った話ではなく、ぼくはだれかを評価するために読書をするわけではない。それでも、綺麗さっぱり忘れて読むとはないらない。

 

 しかも、ちょうど一昨日、フーコーについては面白いと思いなおしていたところだったのに…彼の生涯のテーマが権力ではなく主体という記事をネットで見つけ、ふむふむとか思ったところだった。

 

 すこし話はずれる。イギリスではフーコーは今でもよく読まれているのだろうか?読まれているのだとしたら、どんな感じなのだろう。ニュースになるってことは読まれているのだろう。そこが気になった。

 この話題については本日はここまで。

 冒頭の話につなげる文章を書こうと思ったが、それは止めておこう。同じ土俵に乗ってなにになるのか?

  それでもひとことだけ。さすがにフーコーの読者で彼を神格化するひとなんていないと思う。彼自身、だれが言っても構わないという主旨の発言をしている。「作者の死」を唱えたひとを神格化するなんてありえない。といいたいところだけれど…

 

 話は変わるが、もうリバタリアンパターナリズムは無理?活動限界ですってやつ?