忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

どーしても

 男であるとか、女であるとか、ついているとか、ついていないとかというところにこだわるのであれば、まひろがどーして女の子として生活できているのか?この点を考えてみるといいのでは…と思う。

 『お兄ちゃんはおしまい!』の感想をいろいろ漁っていて、そんなことを思った。

 ぼくはこの作品を見ながら、ついているとか、ついていないという違いにあまり着目することがなかったため、この点にこだわった感想をあまり理解できないのだけど、まひろがそれほどぎこちなさもなく、女の子生活を送れているところは不思議に思う。が、一般に、人間というものは朝、目が覚めた瞬間から男は男になり、女は女になったりするわけではない。実は一日の間で男であったり、女であったりする時間というのはそれほど長くないのでは…それにしたって、その長くない時間であっても、男だった人間が薬で女性になったとして、なぜかそれほどのとまどいもなく女性を生きることができるのは不思議と思える?

 本当に不思議だろうか?

 どーだろ。まあ、なんと言いますか、意外とまひろのようにだれでもできるのではないかと思えなくもない。要は、非常に強固なにかに支えられている?拘束されている?ような人でない限り、意外と自分の性自認というものは崩壊しやすいでは、と勝手に思っている。ぼくなんかは百合作品を読んで、かなり簡単に壊れた。

 余談になるが、崩壊しやすいから、いろいろ迷った末、ノンバイナリーと自己を規定する人が一定数、出てくるのはそーいうもんかな、と思う。もう、わかんねーよってなると思う。なので、本作の主題を性別転換とするのには違和感がある。余計なことを書いてしまったな。

 お話が逸れた。

 しかし、問題は男がなぜ女としても生活できるのか?という点にある。これはなんとなく、男は男についても、女についても知っていて、知っている範囲で生活可能ということだろう。(女は女についても、男についても知っていて、以下略)

 まひろもそうなのだろうと思う。

 

 ぼくは本作は見た目の変化を扱った作品と思っているので、上記のような見方とはアクセントの置き場所が明確に違うが、自分とは異なる意見を高める練習をしてみた。難しいな。高められていない気がする。

 あと、まひろが主人公だとして、この作品はみはり視点からのもの、と解釈するとおもしろいと思っている。

 

 ちとことばが足りていなかった。自分でもイミフになるやつだ。

 まひろが女性として生活することへの戸惑いみたいなものを描いても、よさそうなに、そうしなかった点が本作の美点と感じたのだった。これが起点。

 

 あ、人間は兄にも、姉にも、妹にも、弟にもなれるのかもだな。ひとりっこでも。