冬アニメ メモなど
先日の補足
紅葉に埋め尽くされた地面を「赤い絨毯」
銀杏(いちょう)に埋め尽くされた地面を「黄色い絨毯」
銀杏(ぎんなん)に埋め尽くされた地面を「う、以下略」
こういうのをヘタクソと言った。だれでもすぐに思いつきそうな手垢のついた表現という意味で凡庸である、という意味だ。ヘタクソでも、そう感じたら、そう表現するのがいいし、ぼくは表現の拙さなどそもそも、自分が書く場合には、気にしたことがないが、あまり比喩というものはつかわないかも。やっぱ、なんたらは疾走する、涙は追いつけないみたいなこと書きたくなってくるので。といっても、この種の表現に詩才をみるのが妥当か?はよくわからない。ことばのひびきはいいと思う。
作家、三島由紀夫の仮構性について
仮構性を認めるとややこしくなるのは彼の発言をイロニーと解せざるをえなくなるから。彼の過激なところも皮肉とみるより仕方ない。作品も、あの肉体も。なんもかも。で、それってすごくめんどくせーことになる。頭がこんがらがってくる。
「ガチの皮肉」、「全力の茶番」と形容すると、これはこれで意味不明なことばになる。「抽象的な比喩」と言っている人たちを笑えなくなるわけです(笑っていますけども)。
しかし、『樅ノ木は残った』における原田甲斐は実際、「全力の茶番」をやったように見えるわけです。三島も?と濁したくなる感じです。なので、そことの整合性からも、加藤解釈をおもしろく読んだ。
日本人はこういうのがすきなのだと思う。日本人だけではないかもだが。『ヴィンランド・サガ』のアシェラッドはすごく原田甲斐的だった。彼は外国でも人気があったようだ。どこらへんが好かれたのかまではわからない。
『リズと青い鳥』もぼくから見るとそういう作品。傘木希美がエモいのは全力で嘘を生きるところ。そのことに鎧塚みぞれはまったく気づいていなさそうなところ(気づきようがないから希美の嘘は成立するわけだが)。で、それを確認できるのは、その作品を見ている人。うおーーーー青春と叫びたくなるよーな、そうもないよーな。叫びたくはならないな。よくわからんけど、エモい。青春ではなく、人生か。
作家、三島はさほど好きではないと言ったくせに、上記の作品群や登場人物は好きかもしれないが、そういう世界はなにか根本的に間違っているような気もする。
『おにまい!』クッキー回。まひろも、みはりが好きなのか。そういうお話ということかと思う。ちょっと違うか。まひろはみはりの自分への並々ならぬ好意に気づいているということか。
あと、昨日はなにをみたのだっけ。すぐに書かないとわすれるな。まあ、いいか。
『陰実』は前期からの続きなので除くと、今期は『おにまい!』と『ニーア』がおもしろい。あとはよくわからないまま、見ている。あ、『久保さん』は白石君が鈍感であることで成立するラブコメということになるのか。ちょっとよくわからない。鮮やかな対比がいくつかる。主役/モブ。敏感/鈍感。いくつかではなくふたつか。
『独矛超盾』の終章だけをよみおえたけど。また、はじめから読み直してみよう。というのは「時間経過」に関する論述のところであったか。そこを読んでいて、たとえば、小説を読むという行為は時間経過の疑似体験になりうるのか、とも思ったが、内在という要素はないので、そうはいえないのか。まあ、それはいいや。
時計の針の発明がどう偉大のなのか、よくわかなかったので、読み直す。
終章は読み手としては一人二役的な読みになるので、おもしろかった。しかし、十分には高められていない状態で読んだので、きっと一人二役をこなせていない。
根源的な記憶?の存在も世界を構成している。
ふたつの原理の競合が世界を構成。世界、そのものが矛盾で構成されている?
人称と時制
いくつも読み直すポイントがある。よくわかっていない部分。
しかし、ぼくはたぶん?SF作品でも、非常に非哲学的視点から楽しんでいたのだとおもうけど、今後もやっぱそのままなのか。じゃあ、文学的感性ってなんだよ?とは思うな。よくわからんな。哲学も、文学も楽しめるという人もいるのだろうし。
しかし、哲学も、文学も、世界の謎を解明しようというのは同じに思うけど、なにが違うのだろう。
あと、哲学的に重要なことを扱っている文学作品があっても、そのことにぼくは気づいていなかったというのは非常にもったいない気がしてきた。時間がもったいないというのでもないが。