忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

秋アニメ メモなど

 ツイッター「社」は大変なことになっているのか。

 電車の中ではボケーと外の景色を眺めながら、あまり変わり映えしないなとか、うそぶきつつ、変わりゆく東京に寂しさを感じたりするのを日常としているが、五年後あたりにツイッターを始めたら、電車内でおやじギャグを独り言としてつぶやくのを楽しみにしていたのに…

 ぜひ五年後までがんばってほしい。さびれたら、さびれたでそれは非常にぼくの気性に合っている気もするし。ブログも、世間的にはさびれてから始めて、ちょうどよかったと思える。

 youtubeはどうだろう。20年後くらいにはじめてみようか。イケボでおやじギャグを独り言のようにつぶやく。というのは、もうすでにそーいうのはあるのだろう。しかし、声優さんの声というのをアニメを通して、日常で聞いていると、とてもじゃないが、ぼくの声は汚くて、自分でも聞きたいとは思えないな。

 ?文章だって汚いかもだが、こうして日記という形式で残している。なぜ文章ではその汚さは気にならないのか。声も、やってみたら案外、気にならないのかもだな。

 

 『DIY』について

 『けいおん!』に近いのは『ぼっち・ざ・ろっく』よりもこっちのほうかも。ストーリーはないし、4+1だし。そのひとりは、これまた、『けいおん!』と同様に各回の構成によって変化する。その役割もまた変化する。観察者などなど。

 ただ、そうであっても、現実の高校生の部活動生活をそっくりそのまま映像におこしたわけではないから、これもまた表現となるのだろう。

 

 『恋愛フロップス』について

 お下品方向に突き抜けていこうとするおバカ路線の意志は感じられる。

 しかし、それはギャグなのか。

 よくわからない。が、その疑問はいったん忘れるとして、この作品の核にあるメッセージ性に着目すると、そのおバカさとは裏腹にけっこうまともなことを言っている、あるいは、言いたいという意図が見える。

 「露悪」の問題か。

 『アキバ冥途戦争』のほうはもうちゃんと見ていないというか、4、5話を見るのを忘れたが、これも、はちゃめちゃ?めちゃくちゃ?むちゃくちゃ?な荒唐無稽なことをやっているようで核にあるものは至極まっとうな人間観のようなもので、ぼくにはあまり笑えなかった。

 

 非常にまじめな作品に見える。人間や人生をなめくさっていない。

 蜘蛛子は人間なめくさっていた。そこが好きだった。時に餌や経験値として人間を見るまなざしが好きだった。

 個人的な趣味の問題か。

 『よう実』の綾小路は人間をなめてはいないけど、蜘蛛子に近い眼はもっているように思う。

 『蜘蛛ですが』も『よう実』も不まじめな作品か?といえば、そんなことはないし。

 

 『恋愛フロップス』のお話に戻ると、そのまもともなところが、この作品で毎回のようにばらまかれている謎に関係してくるのだろう。まあ、その謎が気になるので、見ている。お下品路線のバカバカしさも、この調子で貫いてほしいけど。まあ、笑いはしないが。

 

 『恋愛フロップス』は『ときメモ』的なものをお下品なところを強調することでギャグに変換した?『ときメモ』を知らないので、とくわからん。

 『アキバ冥途戦争』は『昭和残侠伝』的なものをギャグに変換した。

 こういうのは元から、視聴者にその種の感性があったということと思う。『ときメモ』や『昭和残侠伝』を笑いをこらえながら、見る感性もありうる。大映ドラマなんかも、そうなのか。しかし、ぼくは大映ドラマもみたことないな。 

 この間、書き忘れたが、北野映画自体がやくざ映画のパロディなのだと思って、ぼくは見たが、やくざ映画に詳しい人からすると、これは間違った見方なのだろうか。

 

 『エンゲージキス』もそういえば、主人公がまったくクズ野郎ではないところが、少し残念だった。自分でクズと思っているだけで、ちっともクズではない。

 ふざけているようで、まったくふざけていないまじめなアニメ作品はけっこうある。「露悪」の問題として考えてみると、やっぱ、80年代?90年代?の露悪ブームの後継なのか。このあたりの事情にも疎い。テレビ文化?雑誌文化?こういうのは多分、youtubeにも残っているでしょう。ユーチューバーにという人たちにそれほど新しさを感じないのは、テレビ文化の影響を強く感じるから。話が逸れてしまったな。別にディスってはいない。文化というのはそういうものと思うので、重なり合っているところがあって、少しずつ変わっていくのだろうし。

 

 『BLEACH』について

 今期について、ではなく、この作品全体に対する理解として、黒崎一護石田雨竜の物語なのかも。

 そばにいた人間が遠くに行ってしまう感じを描いたと見る。死神代行になってから、石田にとって黒崎はそんな存在になってしまったという理解。それと死神とクインシーの関係の問題。まあ、ぼくはめんどくさがりなので、この辺で理解をとどめる。気が向いたら、整理してみよう。

 しかし、こういうことを表現してみたくなる気持ちはなんとなくわかる。

 ぼくの中学の時にもそんなことはあった。ものすごく映画好きで『Falling Down』について意味のわからない解説付きですすめきたりした人が高校、大学と進んでいくうちに何の変哲もない普通の人になっていくのを目の当たりにした。そういう人を傍目に相も変わらず中二的感性で生きていたぼくなんか、気後れしたものだ。彼は普通の人になり、ぼくも凡庸なちゅーにな人になり、今に至る。そして、そんな今では、彼我の間に大した違いもなかったと思える。

 たぶん、こういうの近いものを『BLEACH』は描いていたのだと思う。石田視点から理解するとよくわかる作品な気がする。

 

 ああ、わかった。

 『DIY』とか『けいおん!』とか、こういう作品は「あの頃、大体、高校生の頃は救いようのないバカだった」と思い出させてくれる作品なのかも。そうした意味で「イタイ」作品群というくくりが可能な気がしてきた。

 『あだしま』のしまむらの異常性はそこだろう。高校生にして、その人生の重要な!事実に気がついている。高校生の時に幼稚園時代や小学生時代の自分を回顧し、あの頃はバカだったと述懐する。さらには、バカであるのに生き延びることができた、その幸運にも気づいている。すごいなと思う。ほめています。