忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

秋アニメ メモなど

 このところアニメを見る時間を削り、睡眠時間を増やした。とくに体調がよくなった気はしない。寒くなってきたので、ただ単に眠くなるのが早まっただけかもだ。

 

 今期はおバカアニメがおもしろい。

 『陰の実力者になりたくて!』は典型的な「別のなにかを達成しちゃった系」なのだろうか。『恋愛フロップス』も非常にバカバカしいアニメだが、ヒロインたちは主人公の男に過去、会っているのがわかる。この謎が明かされたとき、このアニメのなにについてのアニメだったか?がわかる仕掛けか。

 

 『ぼっち・ざ・ろっく!』は『けいおん!』よりもストーリーらしきものがあるのはわかる。「成長」ともろに後藤ひとりにセリフで言わせている。どちらがおもしろいということはない。ただ、ぼくは高校生の頃、自分の成長とか考えもしなかった。なにを言いたいのかといえば、「成長」というものを意識するのは回顧において、過去を振り返り、そこで初めて気にするようなことのような?といっても、ぼくは回顧においても、過去の自分に成長を見出すようなことはない。『けいおん!』のほうにどちらかといえば、この点でリアリティを感じる。ただ、『ぼっち』がなんのアニメであるか?現時点ではよくわからず。

 

 『DIY』は唐突に、やや無理筋に水着回だった。

 

 人文学というくくりではよくわからんけど、文学はある程度、歳を重ねないとどーしても理解の及ばないものがあると思えるので、早成型の天才というのはなかなか難しそう?ランボーが50になったら、どんな詩を書いたのか。いや、ぼくが知らないだけで書いているのかもだけど。あと、三島の書いたものはいまだに年上の人の文章を読む感覚で接しているが、彼の歳を追い越したら、そのうち変化するのか。こういうのも不思議だ。

 いくつの時に書いた文章であるのか?いくつで死んだか?この二つの要素が、それほど複雑にではなく、絡まっていそうではある。丸山がおそらく20代の頃に書いた文章をぼくが20代の時に読んで、すごく驚いた記憶がある。まあ、自分と比較して読んだりはしないわけだが。

 つーか、生きてみないとわからんことは文学に限らんのかも。ただ、自分の年齢とは別に時代精神みたいなものの影響はあるようにも感じるので、明治の人の文章とか自分が年を重ねても、向き合い方は変わらなそうな気もする。せいぜい昭和の文人くらいまでしか自分と同じ地平に並べて読むことが可能ではなさそう。

 全然、関係ないが、徳富蘆花の文章が好きだった。今でも好きかもだ。「謀叛論」は今でも?今だから?読み返してみようか。

 

 アニメの話に戻ると『アークナイツ』は見ていない。これもゲーム原作で、しかも、ソシャゲよね。ソシャゲへの誘導目的のアニメは続きはゲームで…になるのがめんどくて見ない。『ウマ娘』も見ていない。まあ、『ウマ娘』は人型の馬が徒競走をしているのが理解できなくて見ていないわけだが。

 

 中間選挙はまた米国メディアは予想を外したのか。そうでもないのか。しかし、ぼくにはよくわからんのが、米国における「分断」だ。たとえば、居住エリアでくっきりわかれるみたいなのはちょっと想像できない。

 

 以前、死刑のハンコを押さないと弁護士出身の大臣が言った時は、それはそれで批判されていた気がする。これも失言といえば、失言だろう。ぼくは知らないが後藤田正晴はハンコを押すと言ったと聞いた気がするが、このときはどうだったのか。

 死刑当日に鏡を磨ききる?だか、なんだかと言っているのをテレビで見かけ、テレビを消した記憶はある。

 ともかく、どういう意図の発言かもわからないので、なんともいえない。

 「問題発言」とか「失言」で気になるのは、今回のケースようなものではない。許容されるケースの場合、だれに向けて言ったことばであるかによって、そのラインが恣意的に引かれるケースがある。「不良品」発言とか、ぼくは気になった。

 その発言をした人に対する怒りというよりも、その発言を結局は許容してしまう社会の冷たさというか、残酷さにびびるというか、なんというか。許容するというか、その発言だけでなく、その発言の該当者を含めて思い切りスルーを決め込む残酷さ、とでも言うべきか。

 まあ、ぼくにもそんな側面はあるのだろう。あ…見なかったことにしよ…みたいなはある。

 イクニ監督作品のすごさはそういう社会の冷たさを描けているところか。