忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

雑記

 ・世間ウケすることを言わない

 昨日の補足。

 よきことも、露悪的なことも、畢竟、世間ウケはいいのだろう。

 これに「非僧非俗」を対置してみる。かれの考えた還相とは?『反核異論』から、そうだったのか。オウム擁護発言と一般に考えられているものも、『「ならずもの国家」異論』も、9.11テロ、とくにWTCに対するテロへの洞察も、原発問題にたいする洞察も、今ならバッシングにあうだろう。

 慰安婦問題について、彼女たちがかりに嘘を言っていたとしても、それのどこに問題があるのか?と問うた姿勢も、今ならバッシングの対象になるか。(ちなみに、彼女たちを「嘘つき」と倫理的に批判していた人たちには、ぼくも違和感がある。嘘をついてもいい、わるいという次元のお話なのか?ぼくはそうは思わない。)

 個別に見たら、彼の発言全てに同意はできないが、今でも、オウムに関する発言はなぜ世間から叩かれたのか?、疑問だ。変なことをいっているようには見えない。

 でも、ぼくにはよくわからん。かれが還相の過程で変わったのか?それとも、世界のほうが変わったのか?なんか今のほうがより世界はわかりやすさを求める方向に変わっていった気がする。

 たとえば、証拠にこだわる傾向とか。江藤淳漱石論なんかも吉本は擁護していた。実証的見地からするとヘンテコな記述が江藤にあったとしても、そういう批判をしてくるほうがおかしいといったような内容だったか。というか、吉本の漱石論も、関係者の証言と矛盾していた。この話はちょっと違うか。

 うーん。

 たとえば、ブチャについて、とか。これはちゃんと検証されることが望ましいと思うけど。転換点だった。

 池袋暴走事故についてはいくら検証されても、個人の内心の問題とか、証拠で覆せるようなものではないと思うが…誤作動が起きていた証拠が見当たらない≠飯塚さんが嘘を言っている。だって、信ずるとはそういうことでしょう。

 話が拡散してきた。

 おおざっぱな印象としては、バズることばには特徴があって、そのひとつはあらかじめ正解がわかりきっている点にある。よきことでも、露悪でも、どっちでもそうなっている気がする。異論をはさもうものなら…これはネットメディアの発達によって、従来とは比べ物にならないくらいの速度で名言、失言が人口に膾炙するようになったからか。失言、変なことを言うと即座に袋叩きにあう成り行きになる。

 いろいろと整理してみないとわからんな。

 だれが変なことを判定するのか。

 その基準はなにか。