忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

昨日の補足など

 アニメ『見える子ちゃん』について

 組み合わせの問題

 すごく見える子×ちょっとだけ見える子の生み出すズレがなぜおもしろいのか?

 

 すごく見える子×全く見えない子

 ちょっとだけ見える子×全く見えない子

 このふたつは見える/見えないという対比に収まる。

 すごく見える/ちょっとだけ見えるは上記の対比とは異なる。その差分がおもしろいのか?見える/見えない以上に描き方のヴァリエーションがあるのかも。自覚の有無だな。見えていない子だけ見えていないことを自覚できない。ちょっとだけ見えている子はどう理解すればいいのだろう。ちょっとだけしか見えていない自覚はあるのだろうか?ただ、みこの見える力を正確にユリアは把握できているみたいだけど。見える力に関してみこ>ユリアという自覚はありそう。まあ、それでもなんかいろいろと誤解含みだが、そこをおもしろく描けているのがすごいな。

 三者三様の世界の見え方(世界観)をもっている→そのことを反映して、誤解の三重奏になる。みこが一番、正確に世界を見れている、と階層化してしまうと友情物語の大切ななにかが失われる。したがって、三つの世界観は並置されてなければならない。

 みんな、「コミュ障」ということば好きっぽいけど、実際のところ、各自がそれぞれ別々の世界観で生きていると仮定したら、コミュ障状態がデフォなんでは?

 

 見える子の孤独。それに悩むみたいな方向にいくと『さんかく窓の外側は夜』みたいな感じに理解していいのか。こっちもけっこうおもしろい。記憶の捏造みたいなことになっている。

 

 文学と孤独については引き続き考えてみよう。といっても、ぼくの場合はだれかの作品を読んだときに浮上する問題ではある。

 

 昨日、すこしだけ『朝まで生テレビ』を見た。時間にして10分、少々。録画していたアニメを見ようと思ってテレビをつけたらたまたまやっていたので。その感想を少しだけ。ぼくが見たのは日本の経済敗戦の原因は教育にあるみたいな話をしているところだったか。ぼくも以前よりは多少、聞き分けがよい人間になったので、(本当かよ!?)イライラはしない。一万六千歩くらい譲って、いま日本経済のおかれた状態が他の先進国と比べ、衰えており、未来に明るい展望が開けていないという点は認めるとして、その原因は教育であるのか?うむ、その原因も教育ということも、この際だから、認める。

 しかし、日本経済を立て直すために教育改革が必要といわれると、途端に????が一万八千個くらい並ぶことになる。こういう教育論をとりあえず、救国教育論と名付けよう。その救国教育論の特徴はなんといっても、国家戦略の一部として教育を位置付けるところか。そういう考えをもつ人はそこそこいるとは思ったが、ぼくが驚いたのは、救国教育論に対して当該番組の出演者の中に異論をとなえた人がひとりもいなかったことだ。「じぇいりべらる」なんてこの世に存在していないのではないか?まあ、いいや。

 しかし、教育とはそもそもなんなのだろう?より限定していえば、世界経済で勝ち抜くための国家戦略の中で位置づけられる教育とは?

 話を逸らそう。例えば、漱石は帝大教授へのルートから外れ、当世でたとえるなら、サブカル同人誌のライターへ転身した、といえると思うが、それは国家的損失だったのか?

 あるいは、もっとぼくに引き寄せて、教育を考えるなら、ぼくのような人間をそれなりに生きていけるようにするのが教育?

 政治家が教育を語るとその必然として、そういうお話になってしまうのか?

 放言はしたくないので、まじめな話をすると、かりに日本という国家が機能不全になったら、日本にある、たとえば、大学もそれに合わせて、機能しなくなるのだろうか?とりあえず、日本の危機という文脈において教育を考えるのにぼくは違和感がある。国家戦略の従属物みたいな教育(指嗾教育)をぼくだったら、受けたくないから。しかし、そういうものを望む人にはそれがいいのか。

 

 それにしても寒い。しかし、頬を突き刺すような寒さの中ふらふらする散歩も楽しい。