忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

コロナ禍で気づいたこと、炎天下に散歩して思い出したこと、その他

 コロナ禍で気づいたこと

 ここ数年、風邪らしい風邪をぼくはひいていない。というのは、たぶん、正確な認識ではなかったのだろう。そのことに気づいた。

 おそらく、ここ数年の間もぼくの体内にはウイルスは入ってきていたのだと思う。ただ、自覚症状が出るほどまでにはならなかったというだけの話だったのかも。無症状感染者というのかしら?まあ、詳しいことはわからない。しかし、特になんの対策もしていないのに何年間も風邪をひかないなんておかしいとは、これまでは思いもしなったのである。

 という具合にいろいろとコロナ禍から学びがあったと言ってみたいものだが、かしこくなった気はしない。気のせいか。気のせいということにしようか。

 

 炎天下に散歩して気づいたこと

 柳田國男の逸話にぼくが好きなのがある。

 たしか、光る玉だったか?石だったか?そういう類のものをじっと見つめているうちに「あちらの世界」に行きかけたというお話だったと思う。その時は幸い?彼の母の声かけだったか?カラスが「カー」と泣いただがして、ふと我に返り、「あちらの世界」には行きそびれたそうな?

 ぼくにも似たような体験がある。小学校3年くらいだったか?炎天下の朝礼で先生のつまらないお話をほんの数分、たぶん、1分くらい?聞いているうちに「あちらの世界」に行きかけたのだ。この時は担任の先生が声をかけてくれた。「まじめに聞きなさい」みたいな感じだったか。その一声で、ぼくも「あちらの世界」に行きそびれた?のか??

 これは誤解でたぶん、熱中症になりかけだったのかも?

 今日、炎天下で延々と散歩をしていて、この感覚!ってなったのだが、たぶん、熱中症じゃないのか?みたいな。

 つまり、柳田の体験とぼくの体験はまったくの別物だったのかもしれない。

 まあ、それはそれとして、あの時、柳田が我に返らなかったら、どうなっていたのだろう。やはり、すごい民俗学者さんになっていたような気もするし、シャーマンになっていたのかも?

 

 ところで、夜はもう少しだけ秋の気配が漂っているな。今日から、それは感じた。

 

 『86』のメモ

 今日、見直そうと思ったけど、暑いから出かけたので、見てない。

 なので、覚えている範囲で内容の整理をメモ。

 

 死者との向き合いに関して

 シンとフレデリカ

 シンは兄の死を含めた86区の同胞の死に加え、連邦での仲間の死

 フレデリカは自身の近衛騎士であったキリヤ・ノウゼンの死

 キリヤの声はフレデリカには届かない

 

 よくわからん。対比にはなっていないか。

 死者とどう向き合えばいいのか、わからないから、せめて鎮魂ということかしら。同じ悩みをふたりは抱えているように見える。

 

 序盤の死者の声の描写は過去の日記のメモを見返すと、おどろおどろしい感じだったみたい。

 

 シンについて

 日本の戦後民主主義を突き詰めていくとシンみたいになるという感覚。まあ、どこかで転倒でおきているのだろうけど、同胞の死か。

 戦後民主主義を突き詰める→転倒→戦場をさまよい続ける

 避けることができない同胞の死を契機に価値観がひっくり返っているという理解。

 わからん。混乱してきた。

 

 ちなみにシンは鷗外を愛読してた描写があったような。

 

 共和国について

 主人公ふたり、シンとミリーゼの故郷。失われた故郷。

 

 共和国の崇高な理念に腐敗の芽があったわけではない。

 理念を実践した結果が腐敗ではないということ。

 忘れとるな。

 たぶん、理念と現実の乖離、そこにある矛盾が腐敗の芽であったのだろう。

 で、本作は二人の人物を対比させていた。ミリーゼの父とその父の友人。

 父は最後まで理念に殉じ、その友人は矛盾を自覚しつつも看過し、頭がおかしくなっていた。あれ?ちがったか?

 この辺の描写をウンウンとうなりながら見てた。いや、うなってはいないな。ふむふむって感じだった。すこし、盛り過ぎた。

 

 うなってはいないな。うなっては否否。

 

 ああ、話を元に戻そう。

 矛盾は国家の崩壊を招くという洞察について。わからん。しかし、少なくとも、ここらへんの描写が本作は説得的だった。

 

 今日はこの辺でねるべさ。

 

 あれ、『ピンドラ』の映画は今、やっているのか。8月11日から。見に行きたいけど、暑い。無理じゃね?自問自答。