忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

春アニメ メモなど

 『まちカドまぞく』12話

 おもしろかった。

 高校生活において次から次へと溢れだす謎のエネルギー。行き場を失い消化しきれなくなったエネルギーたちは謎の計画実行へと向かう。つまり、みんなで仲良く徹夜する回だった。やはり、高校生活の大事なところをとてもうまく描いているのだと思う。いや、高校生活と限定する必要はないか。

 ぼくはもうおっさん化したので、ゲームで徹夜することはなくなったということになっているが、それはすごく個人的な事情による。同年代でも、LOLを徹夜でやっている人は探せば、いそうな気もする。

 

 ところで、『まんがタイムきらら』の読者層はいくつくらいの人たちなのか?いい年した人間が「きらら系」を読んでいるなんて幼稚と言いたいわけではない。むしろ、高校生や大学生が「きらら系」を読んで、どこを楽しんでいるのか?そのほうが気になる。

 おっさんが読んで、あの頃は、というのは高校生の頃は、体力があって本当にバカでなぜか奇跡的に生き抜くことがでた、と回顧しつつ楽しむのはなんとなくわかる。

 高校生からもうちょい上の世代はそういう楽しみ方をしていないよね。それとも、案外、おっさん世代と同じような視線で楽しんでいるのか?まあ、『安達としまむら』のしまむらはそんな高校生だったので、そう不思議なものではないか…

 

 ただ、おっさん化することでぼくの心境に変化があったとすれば、本当に何の変哲もない、おもしろみのない人間になっている気がすることだ。以前から、若い時だってそうだったとは言えるか。でも、あの時にあった底抜けのバカさ加減もなりを潜め、ただただ、おもしろみのないバカになっている気はする。

 

 こういう感覚をツイッターで吐露しているのが「タワマン文学」だろうか。正直に言ってしまえば、まったくおもしろくない。つまらない人間になり果てましたみたいなお話。タワマンでの居住経験がないため、いろいろとわからないが、なんとなくああいうことを書いてしまいたくなるこころのあり様はわかる気もする。

 しかし、その親の気持ちはおそらく、こどもに伝わっている。

 「きらら系」を楽しむ若者がいるのだとすれば、そんな親世代の気持ちが伝染して、実年齢以上に精神的に老け込んでいるのでは?と。この親世代というのは中受経験者に限定されないか…なんだろう?広く親世代が罰ゲーム感覚で生きてんのかね。

 これはぼくの思い違いか。

 よくわからんけど、「きらら系」はある程度、歳くってからみても、楽しめる。なので、今の若者も10年後に「きらら系」アニメが残っていたら、きっと楽しい中年生活になると思います。

 

 昨日の続き

 モブとしてつまらないおっさん化の道を意志的に歩む。と書くと、なんか頑張ってつまらないおっさん化するお話に見えるが、全然、そういうことではない。ぼくの場合、とくに頑張るまでもなく、そうなる、なりつつある。

 でも、ぼくは「タワマン文学」を書いてみようとか思わないな。タワマンに住んでいないからではなく、なんだろう。違和感がある。冷めた視線で自分を見るなら、もっと別のところにフォーカスする。

 

 タワマン文学 中学校受験を経験した親がこどもにも同じ罰ゲームを強いる

 中学校受験は課金ゲー(ソシャゲ)という比喩。

 時間とお金の壮大な無駄遣いことでしょう。少なくとも、そういう含みを持たせている。実際、罰ゲームのようにソシャゲをやっている人はいるんだよな。もちろん、そうじゃない人もいるだろうけど。ガチャじゃなくて、シナリオとか、キャラを楽しんでいる人もいる。

 その罰ゲーム感覚をこどもも共有しちゃっているのか、どうか。

 なんかぼくとは別方向につまらない人たちだと思う。それでも、別のなにかを達成する可能性はその人たちにもあるはずだ。

 

 ※ガチャをしないので、かなりぼくの想像で書いています。ただ、youtubeを見ると、ガチャ爆死動画というものがあるようなので、罰ゲームという見方はそんなに的外れなものではないと思っている。

 ※中学校受験もしたことないので、これも想像で書いています。

 

 「別のなにかを達成しちゃった系」も絶対他力のいち形態と見ることが可能か、というのを昨日、書き忘れた。

 

 『The Crown』5話まで見た。

 脚本がかっこいい。

 

 日本でテレビが普及したのは、いつごろ?ばーさんが言うには、今の上皇のご成婚パレードの時に近所の中華屋にテレビがはいったと聞いた。近所の人が集まってみていたのだろう。各家庭に1台はいつごろなのか。

 小津映画で戦友が営業になったから、洗濯機だか、テレビだかを買う話があった気がする。あ、どーでもいいが、100年後の人が小津映画を見て、当時の平均的な人の生活と勘違いとか…ないか。じーさんは映画で描かれる生活は憧れの対象だったと言っていた。ある時までの洋画もそうか。

 脱線した。

 日本版『The Crown』も見てみたい。

 西南戦争の結末から始まるのだろうか。西郷が死んで、天皇制は軌道に乗った気がする。西郷は田原坂で死ぬしかなかったのだと思う。

 

 5話の感想を書き忘れた。

 神になることよりも、愛に生きることを選んだ男がメインの回だった。

 5話以前も、エリザベス女王と対比する人物をメインに据えて、その対比から女王の人物像を浮き彫りする感じになっていたのだろうか。

 5話についていえば、女王も、その男も、それぞれに悲しみを背負って生きているのだと思った。

 

 凡庸なお話だが、人は愛と死を語ることを止めないだろう。

 ただ、自分の人生を見ると愛と死はどこにもないような気がしてくるのは不思議だ。それ自体がないというよりも、それについてなんらかの情感をもって語るべきことがないという感じか。だからといって、虚無というわけでもない。よくわからん。