忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

夏アニメ メモ ジェンダー論など

 眼鏡を新しくしたので、夜の散歩が楽しくなった。夜の景色、特に夜空を眺めながら歩くのは楽しいが、ぼくはやっぱ蔵王の夜空を忘れられない。

 しかし、先ほどは夜空に見とれてというわけではなく、例によってつまらない考えごとをしていて、曲がるところを間違え、余計に歩く羽目にあった。

 

 『よふかしのうた』について

 夜の意味論みたいなのはあるのかも。それが映像としてどう表現されているか。橙と紫?あと夜空の緑。

 夜空の緑はなんだっけ?と思い出したのは『残響のテロル』だったかも。この作品も、映像が特徴的ではあったが、ぼくの場合、それは夜空ではなく、東京の夏に感じた。街が汗をかいている感じ。東京の夏といよりも日本の夏か?蒸し暑い感じ。ところで、梶井基次郎檸檬』の作中の「私」はどの季節の丸善を頭の中で木っ端みじんにしたのか?暑苦しい夏の丸善ではなかったのか?といつ頃からか、おそらく、『残響のテロル』を見て以降、思うようになった。夏を感じさせる描写が『檸檬』にあったかは覚束ない。

 

 脱線した。

 『よふかしのうた』も幼馴染が出てきた。幼馴染×吸血鬼×夜。この三つは混ぜるな危険ということか。というのは冗談にしても、ともかく内容としては学校とは何か?というのがある。

 夜に忍び込む学校と昼の学校は何が違うのか?

 こういうのは学校をまだ覚えている若い人に任せて、ぼくは男の子と吸血鬼が夜空を飛んでいる映像を楽しむことにしよう。

 吸血鬼は空の女で、幼馴染は地上の女なのか。妹の力か。

 妹の力で思い出したが、『ユーフォ』には芋の力があった。

 

 といい加減なことを書いて次の話題につなげよう。

 

 トランスジェンダー論について

 永井均さんがツイッターでおすすめしていた動画を見た。谷口さんによるトランジェンダーに関する哲学的考察を拝聴した。なかなかに長時間であったので、うとうとしてしまい、すべてをまだ見ていないが、おもしろかったです。おもしろくても、うとうとするのは避けられない事態であるのはしようがないので、何回かに分けて見てみよう。

 なお、ぼくにはどこらへんに哲学的考察の核があるのかはわかっていない。ただ、発してならない問いはないのだと言明に触発されたので、少々、メモを残しておこう。

 

 さて、なにから書き始めればいいか?

 ぼくにとっては百合作品との出会いは大きかった。トランスジェンダーの登場人物が出てくるわけではない。じゃあ、関係ないじゃんと思うなかれ。

 異性愛と同性愛の作品の恋愛の違い。ある発見の有無にある。異性愛は異性に恋をしたという発見がないのに対し、同性愛では同性に恋をした発見があるのだ。専門家からするとこういう初歩的なことにもぼくは気づかなかったのだ。

 要は恋愛観がぐらついたわけだ。

 で、次に自分はなぜ男として恋愛するのか?という問いにぶつかる。すると、おもしろいことに自分の性自認、そのものがぐらいついたのだ。

 この日記の過去の内容に重複するが、ぼくは丸一日、朝起きて目が覚めた瞬間から、夜眠るまで男をやっているわけではない。眠ってからも、夢で男をやっているわけもない。というか、実は男になっている時間は案外少ないのでは…と。

 自分はもしかしたら、ノンバイナリーに分類されると気づいたのだ。百合作品に触れた結果として、ここまで行き着いたのだ。

 これはぼくにとって混乱であったのだろうか?たしかに、そうかもしれないが、良い意味での混乱だと思う。百合作品はおもしろかったし、自分の性自認が壊れていく過程もまたおもしろかったから。性自認ということばよりも性意識ということばのほうがいいような気がしてきた。

 少々、雑にまとめると自分のことを「普通」と思っている人の性意識は余程、強固ななにかに支えられているのでなければ、だいたい解体されちゃうような気がするし、それでいいような気がする。楽しいよ。

 で、当該動画で指摘された混乱は残るのだろう。病院、トイレ、更衣室、温泉、銭湯、スポーツ。ただ、スポーツだけは工夫できるような気もするけど。今ある競技性は残しながらも、それとは別の競技性はできないものか?と。

 決めれた距離をだれよりも速く走るとか、遠くへ飛ぶとか、丸い鉄の球をできるだけ遠くへ飛ばすと、相手を見事に投げ飛ばすとか、抑え込むとかいう競技性だけでなくてもいいような。さらにいえば、競技性を解体しても、残るスポーツの楽しさってあるよね…と。興行にはならないかもだけど、それでいいじゃんとも。

 

 自己規定による性と他者による規定(社会による規定)のズレによる混乱。

 この問題は、時制意識とか、政治意識みたいなもんと相似形か。

 時制意識は物理的時間と自分の時間の流れのズレ。

 政治意識は自己規定ではリベラルなのに社会的には保守に分類されるような場合とか。

 よくわからなくなってきた。

 永井さんの用語を借りると「遺稿焼却問題」となるのか。

 つーか、過去の日記の内容にこれまた重複するが、生物学的な分類に服すケースを除けば、性意識についてはぼくは他者による分類は無視すると言いたいが…ぼくのことを男だと認識して、実際的に関係する他者がいるのだとするとそうも言い切れないが…それでも、やはり、ぼくはそれを秘して接することになるような。

 ぼくが男になる時、女になる時、男でも、女でもなく、別のなにかなる時、そういう経験の積み重ねに加え、その記憶の再構成の総体が自己の性意識なのか。で、再構成するたびに別のものになっていくのか。

 しかし、よくわからん。具体的な他者を必要とする場合、しない場合みたいなことを考えたくなる。他者論。

 

 あ、あと自分と考えを異にする人をパージする危惧というのはわかる。

 「妹の力」(いものちから)も差別とか言われるような事態到来は嫌だ。ジェンダーの押しつけというのではなく、そういうのが現にあるとぼくには思えるので。

 しかし、いまのところこれは杞憂か。

 

 カルト排除に対する忌避感

 ぼくの場合、自分自身がひとりカルトみたいなところがあるという自覚か。

 幸い?教祖という器ではないうえに、集めていないので、信者もいないが…

 まあ、ぼくは宗教的人格とは程遠い。