忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

『SPY×FAMILY』を見て気づいたこととか

 『SPY×FAMILY』を見て気づいたこと

 まず、アーニャの「わくわく」というセリフはとてもいいなと思う。ぼくはもう忘れちまったけど、たぶん、幼稚園生のときはあんな感覚で見るもの、聞くもの、触れるもの、すべてにわくわくしていたんだと思う。なんにでも感動して、といっても、その感動という感覚も今のぼくのものとも微妙に違うだろう。

 アーニャは3話だったか?でお絵描きをしていた。ぼくも同じ年の頃、お絵描きをしていたはずで、今よりもずっとへたくそだったと思うが、当時はうまいも、へたも関係なく、そういう評価基準があることすら知らずにひたすら手を動かしていたはずだ。

 ところが、小学生くらいになるとうまい、へたみたいなことばを覚え、その観点から自分を見るようになる。これはなにを意味するのか。おそらく、他者の視点が入ってきたのだろう。第三者視点から自分の絵を見るようになる。

 今のぼくの感動が園児の時と異なる点があるとすれば、そこだ。

 で、さらにいえば、この種の感覚はもうある程度、凝り固まって保守化しちゃっているんだろう。他者の視点を加味したものとして。

 ただ、小学生の高学年あたりから、むくむくと自我が目覚め、自己主張の芽生えがあったようにも思うが、それとても、他者視点を織り込み済みで、さらにそれを意識したものになっている。

 ああ、ぼくはもう園児の時の目でものを見ることができないんだなと。

 当たり前のことに気づいた。

 

 ここから、さらに『俺ガイル』の話に持っていこうと思ったんだけど、無理っぽいな。

 

 『俺ガイル』について

 父と母が比企谷八幡雪ノ下雪乃であるから、それが話題になっていたようだ。

 それで久々に『俺ガイル』の感想をネットで漁ったりした。

 この物語に始まりはどこかという話題はおもしろかった。ぼくの見方も一応、書いておくと、時系列としてはアニメ放送時点よりも前だと考えている。雪ノ下雪乃が小学生の時を起点に置いている。雪ノ下雪乃葉山隼人の物語として始まっているのだ。(ちなみに雪乃と八幡と結衣の物語、奉仕部の物語は交通事故がスタート地点か。)

 なぜそう考えるのか?雪ノ下雪乃の人格形成に小学生時の出来事はかなり寄与しているからだ。他者に対して防御的で、それゆえに傲慢になる。クールな人。で、その人となりに比企谷八幡は魅かれたわけだ。ことばを選ばずに言ってしまうと、八幡は雪乃のそんなクソガキ性に惚れたのだと思う。そうなったのは仕方ないが、雪乃は精神的に幼いクソガキなのだ。

 で、八幡は隼人と異なり、過去の経緯を知らないので、ずかずかと雪乃の内面に入り込んでゆく。もっとも、後にその過去を八幡も知ることにはなるが。

 

 さて、この感想どーしたものか…

 八幡は罠にはまったように見える。しかし、問題は雪乃には罠をはった自覚はなく、ひとりで明後日の方向へ突き進んでいたのに…くらいの感覚しかなかった点だろう。その方向についくる変な男が突然、あらわれた。

 この罠の話はおしまいにしよう。まーあれを罠と言っているようじゃ、愛なんてわかりえません、と誤魔化す。(愛というものがよくわからんので誤魔化すのです。あと、罠にはまっているだけのことを愛と八幡は錯覚しているのでは?という疑義もあわせて提出しています。)

 

 いずれにせよ、雪ノ下陽乃は八幡に「君は酔えない」と挑発していたが、そこは彼女の読み通り(ここは様々な解釈の余地あり。面倒なので今は「読み通り」としておく)で、八幡は「酔えない」人ではない。だから、罠とは思わず、ずんずんいってしまう。

 酔える/酔えない問題はこの作品では大事だと思う。酔えない人≒自意識の怪物。ぼくの勝手な基準だが、雪ノ下陽乃葉山隼人は酔えない人だ。

 

 ※『やはりわたしの大学生生活はまちがっている。』というスピンオフに期待しています。すでにあるのかもしれませんが。

 

 ※『俺ガイル』ファンの人は以下の文章を読んだら怒るかもです。

 雪ノ下雪乃のなにがやばいって、クソガキを続けそうなのところ。もしかしたら、比企谷八幡は自分のどこに惚れたか、わかったうえでそれをやっているの?と思わせる。陽乃はそこにイラついているのでは、とも思う。

 ともかく、こいつはやべーと感じる。背徳の香り。