忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモみたいな

 『星の王子さま』について

 これはやはり手紙なのか?序文で幼い頃の友人にむけて書いたとあったような。届くことのない過去に出した手紙?ぼくはひとさまに宛てた手紙を読んでしまったのか…

 

 宮崎駿作品の特徴のひとつ

 文学勝負を強いられる感じについて。知識を競うものではなく、感性に訴えかけるものがある感じ。ぼくはそこらへんがよくわからない。まあ、これはどうでもいいや。というのも、歳を重ねてわかるようになるかもしれんという希望的観測。

 

 ジョルジュ・スーラについて

 科学によって光というものがどういうものか、理解が進んだ結果なのだろう。分光ってたぶん、みんな気づいたんだろうけれど、技術的に進歩によって解明が進んだということなのだろうか。

 ただ、スーラがゴーギャンの言う?理論家みたいな解釈はよくわからんな。理論家であってもよいのだが、彼の精神の根本には現実よりも美しい絵を描きたいというものがあるのだろうし、そこの部分のほうが画家としては大事なのでは…理論は手段で目的は美しい絵を描く。

 そこで、わく疑問。楽しく絵を描くと美しい絵を描くの違い。スーラが絵を描く姿を想像する楽しんでいるふうではない。

 ルノワールの人間を描きたいみたいなのはなんなのだろう。美しい絵を描きたいみたいな感じだろうか。

 今日の思い付き。楽しく描くの先に狂気は生まれるのだろうか?美しく描くの先には狂気がありそう。というか、美しく描くが狂気なのだろうか。

 点々で絵を描くとか、その手法を貫徹する意志って尋常ではないと思う。

 

 冷笑について

 ぼくの中でその代表格はだれだろう?林達夫?これは文章を読んだ印象でしかない。正直に作文を書いたら、教師に怒られたみたいな彼の話はおもしろいと思ったが、作り話ではないの?とも思った。(ひねくりまわしていた中二病全盛期に読んだ感想なので、今、読んだら違うかも。しかし、読む予定はない。もっとも作り話であっても、おもしろいのだから何の問題もない。)

 自分自身は冷笑家なのか?傍から見ればそうかもしれない。ただ、政治に関心がないというのがその根拠にはならんだろう。冷笑家はだれに舌を出しているのか?その多くは自分自身ではないのか?(たしか、小林秀雄がそんな話をしていた記憶。どの本だったかは忘れたし、たぶん、捨ててしまったので確かめられない。)ひとさまのことを笑っている余裕などないわけだ。であれば、それがクールでかっこいいわけもない。

 この問題は『俺ガイル』の「君は酔えない」問題につながっていく感じがある。八幡はやっぱ「酔えない」系の人ではないだろう。一方で、陽乃と隼人は「酔えない」人であると思う。客観視された自分を含めた世界の中で、その世界に酔えてない自分を発見し、これは笑うしかねーわ、となるのである。

 

 共感について

 そんな自分であるから、まあ、滅多に共感することとかないわけだ。なので、アニメの感想なんかで、登場人物への共感を評価基準にするものを見かけるとおもしろい。自分とは感覚が全然、違うからだろう。ただし、共感は伴わないが、自分に似ていると思う人物がでてくると、この感じ、なんとなくわかるぞ、となる。共感ではなく、これは理解だろう。自分に似ていれば、いるほどに笑わずにはいられなくなる。

 

 今日はこんなことをツイッターをのぞきながら、さっき考えた。