忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

メモ

 『ごんぎつね』について

 当該記事は別のところがきになった。

 

 『ごんぎつね』のある場面について、変な解釈をするというお話は、加藤典洋の知人の娘?の『納屋を焼く』解釈を思い出した。その解釈は、たしか、女は「消える」のではなく、男によって「殺されている」というものだった。「納屋を焼く」とは「女を殺す」ということになる。この短編にある寓意は消えたような気もするが、見事な解釈であり、批評だ。

 で、ぼくはこの話を本で読んだとき、その娘さんは小学生か?中学生か?高校生はないだろう、となんとなく思った。とくに根拠はない。

 これはなんなのだろう。

 なんの予備知識もなく読むと人間はこういう読みをすることがあるのか。おとなのほうが寓意の薄皮に目を奪われ、本質が見えていないみたいな。これは違うな。こんな素朴な経験主義批判はおもしろくない。

 

 今回の『ごんぎつね』解釈、その娘さんによる『納屋を焼く』解釈に類似のもの

 こどもがふつうのお話を聞いているのに怖い話をされていると勘違いして泣き出すみたいなのはこれか?

 最近、話題の陰謀論受容も、これか?

 

 あるいは、ある物語を寓話的解釈するというのは逆向きの読みか。

 混乱してきたので、この話はおしまい。

 

 ぼくがこの記事で気になったのは自分の感情がうまくことばにならない感覚についてだった。この感覚はとてもよくわかる気がする。で、これが苦手だと国語が不得意というのはそうなのかもだけど、でも、そういう人にも文学のおもしろさは伝わると思う。だって、ことばにならなさそうことをなんとかことばに置き換えてみようとしているのだろう。根本には同じ悩みを抱えているような気がする。

 

 あと、ローカルルールに違和を感じないのは国語力問題なのか?

 この問題はほじくり返すとややこしそうだ。

 

 風呂入る。