忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

思い出した

 『お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた件』を見たのだった。一般に駄目人間とはどのような人を指すのかは知らない。主人公の少年は汚部屋に住み、食生活は乱れている。もう一人の主人公の少女はなぜ同級生から「天使」と呼ばれているのかは謎だ。お人好しを「天使」と形容するのは普通な感覚なのだろうか。見続けてみる。

 

 日露戦争を敗戦と評するはおかしいのか。

 敗戦と評するのはおかしい気がするけど、たぶん、この主張のおもしろいところはそこじゃない。日露戦争を契機に日本は変わったという見方におもしろみがあるよーな。有名どころでは、漱石とかも同じような立場ではないか。『大東亜戦争肯定論』の林房雄も。

 あることに対し賛否、肯定/否定の二つの立場がとりうる場合であっても、ぼくからみると同じようなものでは…と感じることがしばしばある。上記の場合、日露戦争を重視する点で同じ。で、この共通点といわゆる右翼/左翼の違いによる主張の相違点ではどちらを重視すればいいのか?

 

 『パラサイト 半地下の家族』と『万引き家族』については家族というものを描く際に血を重視する点では同じだったが、扱われ方は異なった。肯定と否定。しかし、血を重視する点は同じなので、『小林さんちのメイドラゴン』よりはおもしろくなかった、と思っている。小林さんとカンナ、トールとトールの父(名前を知らない)、このふたつの関係はどちらもいいもんだと思えたので。血に焦点化したら、おそらく、描き方に優劣が出たであろう。

 

 この話題はこの辺でおしまい。

 

 「XはYに生まれる」について

 というよりも、「XはYに生まれてよかった(と思った)」にぼくは興味をもってしまう。

 語順を入れ替えたほうが文意は明確化するか。

 ①XはYに生まれてよかった、とXは思った。

 ②XはYに生まれてよかった、とXは思う。

 

 用語が適切かはわからないが、

 ①は大過去になるのか。「Yに生まれてよかった」の部分。回顧

 ②回顧

 最近、また、回顧について気になっていたから、興味を持っただけかもだ。

 Yに生まれたことで重ねた経験を思い返した、その結果としてこぼれた感慨?

 で、ここから「XはYに生まれる」という一節について考えてみると、それは事実の言明のようでいて、それだけではなく、思い?感慨?も混じっていると見えてくる。こういうのが不思議と思う。どう書いたらいいのか、わからん。

 短歌でも、「ほしたり」を「ほすてふ」に変えたのはなぜなのか?と。

 なんかまた脱線してる。

 あと、「XはYに生まれる」は時間の経過が含意されているんだな。仮にことばを知っていたとしても、生まれた瞬間には「XはYに生まれる」という表現は出てこない、というのは歌詞の続きにつられた解釈になるか。

 眠くなってきた。寝る。