忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

うーん 寝言の記録

 この間、「ワンコ大好き」という表記が「ウンコ大好き」に見えた。ベタな見間違いだが、自分にはそういう下ネタに反応する人ではないので、というか、幼稚園のころに卒業したので、不思議な感覚をもった。

 視認性の問題か。視認性といえば、『BLEACH』の10話は暗がりでいかがわしいこと?いや、いかがわしくないことををごちゃごちゃやっているように見える部分もあり、明度の問題なのか、どうか。特にパソコンの液晶でアニメを鑑賞する際、やや見えにくさを感じる。

 

 安全保障問題で自分が思い切り左派なのだな、と感じたのは、ぼくの場合、宇露戦争以後かもだ。皮肉なことに、あまり好きではなかった「戦後民主主義」の重要性に気づかせてももらった。あの時、左派まで戦後民主主義?なにそれ?状態に見えたけどな。あと、やっぱこの国は集団ヒステリーに陥りそうにも見えた。防衛費を増額すれば、集団ヒステリーは防げるのだろうか。よくわからん。ただ、一定の備えは必要なのだと、宇露戦争で知らされた。防空システムとか。まあ、細かいことはわからん。

 脱線してしまったが、ガチの戦後民主主義者がいたから、自分のことをそれほど左派と思わなかっただけかも。

 

 まあ、でも言論人がなんのためにいるのか?そこに疑問を感じたのは、宇露戦争時もだが、「ワクチン」問題でも思ったかもだ。こと「ワクチン」に関しては、宮沢さんが言論人に見えた。科学者に対して、そういうことを言っていいのか、どうか、わからんけど、ワクチンの是非については言論人があまり言及する様子もないので、いっそうそのように見えた。なお、言論人による接種報告はそれなりに確認できた。まあ、それを忘れて、もう少し話を進めると、ワクチン接種は国家が政策として推進したわけだから、その是非は社会に問われるのではないのか。言論とはなんのためにあるのか。まあ、今更、言っても詮無いのか。ぼくの理解が間違っているのかもしれないが、原因がロット差(ワクチン)か、個体差(人間)かも現状ではわからないので、調査が必要というお話は大事だと思う。あと、「抗原原罪」、こちらは明確に社会全体が受けたとされる恩恵が疑わしいものとなるのではないか。(ただし、「抗原原罪」というものは証明可能なのか?)「努力義務」ということばの巧みな読み替えによって、この種の議論を回避していいのか?

 

 といっても、今のネットの言説はなんだろね?脱力感あり。知性の変化についていけてないのはお前だと言われれば、そんな気もする。

 

 「温泉むすめ」というのも最近、知ったが、そこで議論されている「公益性」というのも、よくわからない。両者で違う意味で使っていて、どちらも、譲歩する気がないなら、そこは論点から外すしかないのでは…でも、そこが大事なんだという人もいるのでしょう?なにがなんだか、ぼくにはわからん。

 

 話は戻るが、やっぱ、日本人は公共心があると思う。利己心やら同調圧力(世間体)だけで、こんなにたくさんの人がワクチンを接種するのかね?という気がする。

 

 というか、個人的な実感としては、宇露戦争でも、ワクチン問題でも、それほど同調圧力みたいなものは感じなかった。共同幻想の問題な気がする。エスカレートすると集団ヒステリー状態なのか。

 

 さっき、ニュースでイーロン・マスクさんの辞任?のお話をしていたが、コロナ人工説に日本のメディアは触れていたのか。ちゃんと見ればよかった。トイレに行っていたら、終わってた。

 

 ※ワクチンも、マスクも、ぼくは政策として支持しました。で、あるので、一応、議論は追っています。