忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

秋アニメ メモ

 早起きをしたまではいいのだが、寝起きにコーヒーすすりながら、見る内容ではなかったかもだった。

 

 『BLEACH 千年血戦篇』10話を見た。9話を含め、楽しみしていた回といえば、そうだし、実際、今の映像でこれを見れたことはとてもうれしかった。とごちゃごちゃ前置きから始めてみた。

 まあ、なんだ。初代剣八(卯ノ花烈)と更木剣八の斬り合いは性愛の暗喩であるのか?

 どうなのだろう?ぼくにはよくわからない。暗喩でないとしたら、斬り合い、そのものを彼らは楽しんしているということになるが、その斬り合いは恋愛の具体的なあらわれであるのか?死線上をいったり、きたりするような少々、不健康な遊興なのか?もっといえば、恋愛に死線上に踊ることを欲すところはありはしないか?などと書き散らかしていると、とても、早起きしてみる内容ではなかったか?などとうそぶきつつ、冬の早朝散歩にそろそろ出かけようかと誤魔化してみたくなってくる。

 誤解を招く描き方をすると、ぼくは卯ノ花烈と更木剣八の関係に恋愛の原型のようなものを感じなくはない。語尾で日和ったな。

 『ちはやふる』でも、これに似たことは思ったのだ。太一はその例外であるが、新と千早は性愛よりもかるたが好きそうに見えるように描かれていた気がする。あの作品が放つ健康的な響き、それが苦手ではないし、見ていて心地よくもあるが、その例外である太一の描写を見ていると、『ちはやふる』には別な音も混じっているのでは…と書いてみてたくなる。

 『BLEACH』でいうなら、掲載誌が少年向けのものでなかったとしたら、とありえもしないことを想像してみたくなる。『千年血戦篇』のOPをディスるわけではないが、歌詞にある少年誌らしいモチーフから自由なったとき、原作者の久保さんはどんな作品を書くのだろう?みたいな。

 この後は黒崎一護の出自のお話だったか。本当に忘れている。お母さんがたしかクインシーなんだよな。突然のネタバレである。さらにネタバレすると、いや、確かな記憶じゃないから、やめておこう。

 というか、今の情報環境だとネタバレ回避って難しいと思う。『進撃の巨人』とか、知りたくなかったのに、なんか知ってしまったし。

 

 ごちゃごちゃ書いたけど、ひとことで言い切るなら、『千円血戦篇』10話はとてもえっちだったということです。朝っぱらから見るものではない。

 

 『恋愛フロップス』10話を見た。これも、あまり早朝向けの内容ではなかった。9話メモ時、5人のAIに朝はアイの面影を見るのか?、即(すなわ)ち、朝は5人のAIからアイとの思い出を取り除き、別人格として接することができるのか?と疑問を残したが、やっぱ、少しもやっとする。

 10話では「もんふぁ先生」と心の中で叫びながら、アイとの思い出を回顧している。こころの声、モノローグ、独白と回想が整合していない。

 あれ?でも、人間の頭のつくりって、結構、そういうものか。

 頭のいい人の理詰めの議論を聞いているとたまに思うのだが、人間の頭って、ぼくの場合だけかもしれないが、どうにも理詰めに寄せきれないようにできているような気がしてならない。

 「モンファ先生」と独白しながら、アイを回想していてもいいのかもだ。

 もうひとつ、気になった点。第三者による介入に対する理解。これはよくわからん。他人の恋路を邪魔する奴は…的な存在なのか。

 こうなってくると結末はいくつかのパターンに絞られた気がするけど、もうどなたがそういう考察されているだろう。なんというか、やっぱ、ぼくは結末自体にはあまり興味が持てない。

 前も少し書いたが、結末が気になる作品とそうでない作品とはなにが違うんだろう。ミステリーなんかは結末は大事だし、その種明かしの手際の見事さに感動したりはするのだけど。

 

 人間はAIに恋愛感情を抱くのか?

 AIは人間に恋愛感情を抱くのか?というか、感情がそもそも芽生えるのか?

 さっぱりわからん。とりあえず、小糸侑の口真似をしたくなる。だれかを好きになるというのがそもそもよくわからない、といえば、わからない。実感に即すと、ずっと前から好きだったような気もするし、つい、先程、好きになったような気もするし、それほど好きではないような気もするし?

 

 『陰の実力者になりたくて!』10話。おバカ回にもどっていた。というか、シリアス展開は向こうのほうから不可避にやってくるということなのか。この話の構造は現時点では見えてこないけど、というか、ただ僕が見落としているだけかもしれないが、その深刻な事態を自ら招いていることにカゲノーは気づいていないということなのか。

 この作品世界にある神話は今後、お話にどう影響してくるのか。

 そういう部分に対する理解はばっさり切り落として、カゲノーのモブへの情熱を楽しんでもいいのかもだ。

 

 『処刑少女の生きる道』でも思ったが、本当におもしろくなりかけなところでアニメが終わってしまうのが残念だ。

 

 山本寛さんの『すずめの戸締り』評を見た。あと、すこしだけ聞いた。

 作品のもつ社会批評性についてはぼくはあまり興味がない。というか、なんだろうな…そういう要素を感じると受け手としては身構えてしまう。しかし、たとえば、作品に政治を持ち込むなみたいなことを言いたいわけではない。

 なんだろうな…いや、わかりきっていることはあるな。

 たとえば、そういう社会批評性に富んだ作品を見て感動したとして、それをいち観客として口にしたら、嘘くさくなるとぼくは思っている。

 作品が嘘くさいというよりも己が嘘くさい。そのことに耐える覚悟があるときだけ、その種の発言はするのか?そうしたことがないから、わからん。

 近年の新海作品について述べると、『君の名は。』は見ていない。『天気の子』は見た。『天気の子』はこの日記にもメモを残したか。まあ、忘れた。テレビやっているのをたまたま見た。自称年上が実は年下だったは過去作ファン向けだったのだろうか。

 『天気の子』はおもしろかったのだが、謎の散らし方、答えを用意する/しない、引用の仕方、映像の見せ方、いろいろとすごいと思ったけど、そいういった安定感、安心感が受け手にもたらすものとは?

 ぼくには作者のことはわからない。しかし、受け手として感じる彼らの円熟に生意気を言うと、ゲップしたくなることがある。ジブリ作品とか、くどいと思ってしまうときがある。

 『天気の子』についていえば、水没する東京とか、おとなになるってどーいうことなの?とかにはリアルなものを感じるが、物語全体に対してはそれほどでもないというか、なんというか。主人公はあのちんぴらごぼう風なおっさんなんじゃないか?みたいな。

 何の話をしようとしていたのかを忘れた。

 アニメ『涼宮ハルヒ』がおもしろい。セカイ系は特に好きではないけど、このシリーズはなんとなく好きだ。

 

 『薄暮』は見てみようと思った。

 『すずめの戸締り』は気が向いて、暖かくなって、その時にロングランしていたら、見てみようと思った。