夏アニメ メモ
風呂掃除をついつい本気になってしまい、この時間になり、睡眠導入剤代わりに『よふかしのうた』9話を見て、さらに眠れそうになくなり、日記を書いている。
感動してしまった。セリの言った「めんどくなったら、殺せばいいんだよ」。すごい、その通りとか言ってはいけないのだろうけど、しかし、恋愛というものにそういう要素が含まれることは否定しがたい。すくなくとも、ぼくはそう思う。
ただ、作品としては吸血鬼という設定が功を奏し、セリのセリフは、おやじギャグの練習をしている、別の響きを持っているように聞こえなくもない。つまり、ギャグとして成立「も」する。
座間の事件は世間で流布されたストーリーはぼくにはよくわからなかった。
脱線しかけたが、話を元に戻そう。
阿部定。
セリのセリフを勝手に解釈してしまうと、(好きすぎて)めんどくなったら、殺せばいいんだよ、となる。恋愛の形というのはいろいろあっていんだよとは思うものの、この作品は非常に描きづらいことに踏み込んでいく感じはぼくは好きだ。
恋愛と死は隣り合わせにある。というのはきっとだれしもが直観しているから、そんなものには本気になれないという生存戦略(方便)が出てきたのだろうか。恋愛で人生が狂うというのはありえるし、人生というか、頭が狂っていくのも、確かなことに思える。ひとはこれを恋愛脳といって冗談めかし、お茶を濁すのが関の山って感じではなかろうか。
あ、関係ないことを思い出した。ネット時代の罵倒ワード、先程の恋愛脳など、実に豊かになった気がするが、この現象は罵倒を豊かな文化に育てただろうか。いまいちよくわからない。罵倒芸というものは高度なものということか。巧拙がはっきりと出ちゃう気がする。気がするだけ。
finalventさんが『異世界おじさん』と『リコリス・リコイル』に言及していた。
そのこととあまり関係ないかもしれないが、ぼくは『さらざんまい』を見たとき、すこし不満というか、すごく悲しくなってしまった。なんといえば、いいのか?
予定調和的?何に調和しているのか?たぶん、人の情けのようなものか。
あの容赦のなさはどこに行ってしまったんだ、と生意気にも当時、思ったのだった。冠葉と晶馬、銀子と紅羽が存在すること自体が許されない世界の残酷さはない、と感じた。もうすこし、つっこむとその残酷さというのは実はごく普通な社会のあり様と言いかけたところで、続きは誤魔化す感じ。あまり、考えていないということもあるし、その先を言うのも、ちと怖い。
『リコリコ』は情に寄せてきたのか、とは思った。しかし、これは広く支持される要素にもなりうるだろう。
『異世界おじさん』はぼくはおもしろいと思っているが、結局、おじさんが天然であり、聖人であるところがウケているのだとしたら、すこし残念な気もする。というか、きっとおじさんの天然ボケとそれを支える聖性がウケているんだよな。そのことに嘆息していないといえば、嘘になる。
で、これもなんか予定調和的な感じがする。おじさんはきっと聖人だから、と。
というか、もっと広く日本アニメとして見るとどーなんだろ。宮崎駿という人はとんでもないものを作品に仕込んでいるとは思う。高畑勲も。そういうえげつなさ。あと、けっこう反論を受けそうだけど、「日常系」には、たまに感じる。
『俺ガイル』にもあると思う。
めんどくなってきた。
小糸侑というキャラはそういう部分を含めて、いいなと思う。全然、いいやつではない。
島村もすげー冷たい側面があって、好きだったな。安達とは凸凹コンビという評をよく見かけたけど、その凸凹って冷たいと暖かいでしょ、と個人的には思っていた。しかし、島村家と安達家で見るとそれが見事に反転する。
言われて気づいたが、姉小路もあの冷たさが魅力だったのか。
作品のウケるところと作品の本質は違うみたいな話か。よくわからなくなってきた。
寝よう。眠くなってきた。
『パリピ孔明』の英子の着ていたパーカーもどきを探しているが、あの配色はないんだな。コスプレしようというのではなく、普段着として探している。