忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

夏アニメ メモ、整理

 『エンゲージキス』

 途中脱落して、間を補わず、視聴再開している。オチについては、皆様と同様に予想はついていた。記憶が失われるということは、主人公が愛した女のことも忘れるということであり、その女からしてみれば…ということになる。

 間を見ていないので、見てみよう。男がそれでも成したいと思うのは、なぜか?そこが判然としない。

 

 それと結末はどういう方向に持ってくのか?

 『やが君』は同型の問題を生徒会の出し物、演劇でやっていたが、燈子とその姉の関係の変奏として、この問題があった。となんとなく、付記してみる。

 

 『リコリス・リコイル』10話

 マジマについて

 作中の日本社会の欺瞞を暴くことがマジマの目的ということか。

 うーん。ちょっと耳が痛い話ではあるな。

 なんだろう。ぼくは「けだるい平和」というようなことばを使うようなことは過去にもなかったが、戦後民主主義とか欺瞞の塊だろとか、思っていたし、今でも、その虚妄に賭けるという人がいるのかは知らないが、虚妄に賭けるということがいかなることなのか?よくわからん。すくなくとも、ウクライナ侵攻でその価値観は見事にひっくり返ったように見える。

 あるいは、ぼくは茂木健一郎さんと異なり、国葬問題、五輪疑惑を疑似問題とは思わない。特に五輪の欺瞞が白日の下にさらされることを願っているわけではない。

 あれ、話がそれた。まあ、いっか。日記だし。

 五輪は結局、開催国が赤字をこうむり、民間の主催団体が儲かる。この構造で成り立つ。で、そこへさらに民間企業がスポンサーとしてかかわり、利益を上げる。このことをどう考えればいいのか?

 国民視点では経済的には損なイベントだ。しかも、「親方日の丸式」。国が赤字覚悟で、民間の企業のために儲ける場をつくる。これって、茂木さんはどーたかは知らないけど、官製市場批判みたいなもので日本の構造改革派がいかにも、言いそうなことに思えるが、違うんだろか。

 経済の問題として設定すること自体が野暮という主張は理解できる。プライスレスな感動があるみたいなことをそう主張する人は言いたいのだろう。スケボーやってる若い人なんかたしかにかっちょよかったし?

 まあ、そういうことだ。ぼくはひとさまのことをとやかく言えない。自分も前時代的価値観で生きているが、スケボーに比して、五輪の古参競技はかっちょよくなかった。全然、プライスレスに見えねーんだよ。

 国葬問題についても、書いているとキリがないので、これは後に回そう。

 

 社会の欺瞞を暴く、について

 欺瞞でも、矛盾でもいいが、ともかく、そういうものを抱えていないと構成できないのが社会か?という視点の欠落は本作に感じる。マジマが若者特権として、ただただ、そういうものを暴きたいんだというのなら、本作の欠点とはならない。たぶん、ぼくみたいなおじさんと違って、若者はその視点で楽しんでいるのかも?とは思う。

 

 また、話それちゃうけど、戦後民主主義の虚妄に賭けるとよくわかんねーとか、ぼくも思っていましたね。鶴見俊輔とか、丸山眞男とか。鶴見俊輔とか、ほんとよくわからん。「方法としてのアナキズム」とか、あれはなんだったんだろ。

 戦後民主主義の虚妄はたとえば、「八月革命説」。

 

 で、その欺瞞を暴きたいマジマに対置するおとなの存在

 吉松、ミカ、楠木

 吉松はまだ作中で説明がない?日本社会へのスタンスはわからない。そこよりも、なぜ彼は才能は、それが殺しの才能であったとしても、発揮さればならぬと考えるのか?その考えを支えている価値観について。アラン機関ってのが、そういう思想で運営されいている、ということか。

 ミカ、楠木はD2関係者として、直接、マジマに対置されるべき存在か。

 

 と書いていると、あれ?となるのですね。ちさととたきなはこの物語においてどーいう立ち位置にあるのか?あるいは、モブのリコリスたちは?

 難しい物語なのかもだな。

 

 本作のメモから少し離れて

 社会の抱える欺瞞というのは、結局、共同幻想の問題はないかしら?と。

 ちょっと、考えてみよう。

 『リコリコ』の発想を拝借すると、日本の治安の良さというのは、実態としては共同幻想から出てくるものではないの?

 もう、四方八方に喧嘩をうっていくスタイルにするなら、茂木健一郎さんの次は宮台真司さんか。パブリックマインドがないとか、日本に社会はない、世間があるだけとかおっしゃるけど、日本社会には公という概念があると思う。

 利己的な判断から治安が良くなっているわけではなく、共同幻想の問題ではないのかしら。

 

 さらにあちこちにいちゃもんをつけていくスタイルでいくと、浅田彰さんの吉本隆明理解は間違っていないと思うが、吉本の肝心なところに触れていないと感じる。だから、東浩紀さんと吉本をならべているのか、と。

 吉本は「非僧非俗」と言っているのだから、大衆を擁護とは言えない。むしろ、晩年は大衆的正義とは背馳する言説が目立った。オウム事件の時だけではない。原発発言でも、9.11でも。慰安婦問題では、仮に彼女たちが嘘をついていたとして、全く問題ない、としていたくらいだ。

 まあ、ぼくは東さんの本をひとつも読んだことがないので、浅田さんの評が正しいかはわからないが、吉本については間違っているとは思わないけど、なんだかなーとは思った。まあ、いいや。

 いや、浅田さんが正しいのかも。それでも、吉本のことばはおもしろかったんだ、と書くべきだったかも。しかし、浅田さんからみるとおもしろくないのだろうか。柄谷、蓮實はそこはおもしろがってそうだけど、世代の差もあるのか。

 いちゃもんつけようと思ったけど、失敗した。まあ、いいや。

 

 国民はバカだっけ?選挙に行く人はバカ?

 こういうお話はいくら正しくても、どーでもいいな。ぼくは、確かに、バカでもあるわけだが、別にそういう人たちにバカと指摘されるためにバカをやっているわけではない。

 なんつーか。くそどーでもいいお話だと思う。そういう人たちが持ち出す、最終的にはバカな国民の問題みたいな形で決着するお話がクソすぎる。お前たちにそんな言い訳を用意するためにバカをやっているわけではないからだ。なにをどーしたらいいから、わからないから、バカをやっているのだ。

 ともかく、こういう発言が出てきたら、その番組はどーしようもない。そうだ。安易にある社会問題の原因を特定し、上記の場合、国民がバカが原因、問題を解決しちゃう番組はだいたい見ないほうがいいと思う。

 この場合の解決は啓蒙か?

 経済問題なんかだと、テレビ見ると、日本の長期低迷がなぜ解決しないのか?が疑問なくらい「様々なる意匠」が飛び交っている。(皮肉)

 

 国葬について

 現在の法的環境から、今、国葬ができる/できないという両論が法学者から出てくるのでしょう。吉田茂の時にもっとちゃんと議論して、クリアにしておいてよって今更、いってもしょーがないので、今回、ちゃんと議論したらいいんでないの?

 今後、また、国葬となる度に議論が再燃するのが不毛に思う。

 で、今回の基準がたたき台になるのでは?

 あと、法的には問題ないという指摘を見た。そこへの反論はあるのでしょう。

 で、結局、法的に問題ないとなった場合、それでも、もやっとする人がいるなら、そこは関心がある。法ではない、なにかで価値判断している。適法/違法という視点以外、無視していいのか?そういう議論になるのか。

 理屈じゃねーと言った政治家がいるらしいが、まさにそうで、感情的に対立した問題になってしまったのではないか。

 まあ、この問題はいろいろと敷延できそうではある。

 

 しかし、これ以上書いていると、頭の体操みたいになってきたので、出かける。天気がいいし、髪を切りたいが、もう少し、涼しくなってからにしよう。