忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

知らなかった

 今日はとにかく暑い。昨日も暑かったし、明日も暑いのか。

 はやく秋になれ。

 

 今日は久々にニュースを見た。台湾について。

 

 『ちはやふる』は完結したんですね。原作未読、アニメ2期まで視聴なのに、ネタバレ見てしまいましたね!

 かるたモノとしての結末も、恋愛モノとしての結末も、とくに違和感はなし。

 

 いくつか見かけた感想に反論というわけではないが、いくつか疑問を列挙。

 

 ①三角関係が作品に描かれたとして、その結末は重視すべきなのか。

 これは趣味というか、嗜好というか、そういうものなので、それぞれの好き勝手でいいのだろうと思いますが、ぼくは三角関係の結末にはそれほどの関心はない。aさん、bさん、cさんがの三角関係で、aさんとbさんがくっついたなら、ぼくはcさんの描かれ方に着目するくらいの関心度である。

 ネタバレ見ただけなので、『ちはやふる』については何も言えないけど、『俺ガイル』アニメ3期は由比ヶ浜結衣の内面にウェイトを置いた構成になっていた。まあ、彼女に振られる予感があったからだろう。あ、ご報告が遅れましたが、ぼくは何の前触れもなくネタバレをします。

 この疑問についてはこれでおしまい。

 

 ②物語の解釈の方法として結末から逆算することの妥当性

 これはいつだったか、気になり始めた問題。完結しないうちは結末を予想しながら、一つひとつの場面の解釈を暫定的にせざるをえない。が、ひとたび、完結するとその結末から、逆算して、場面の解釈は暫定的ではなく、確定的になされる。

 さて、ここで変だと思いませんか?という問題。

 いくつか疑問点を残しておこう。

 〇と△を因果関係として、捉えるとして、結末からたどるとそう見えるだけでは?みたいな。そのとき、たまたま歴史が動いた的偶然性の扱いが軽くなるとでも、いえばいいか。

 それと、物語の流れを逆算するという方法は反自然だよね…と。巻き戻して解釈しているんだから。で、これは、悪い意味のことばとしてあてるわけではないが、偽史爆誕なのだと思う。記憶の再構築、再構成→回顧は、もしやこれでは?と。陰謀論の話ではないですよ。

 まあ、ぼくは解釈を適当にやっているので、これまで気づかなかった。いつだったか、忘れたが、おかしいと思ったのだった。

 で、『ちはやふる』の感想を見ていても、これまでのぼくと同じように結末から逆算して、筋が通るように解釈している人をけっこう見かけた。

 こういう解釈に妥当性があるとすれば、作者の意図の把握としてなら、いいのかも。作者は、はっきりとした結末ではないにせよ、ある程度、結末に収斂させるべく、お話を進めていくのだろうから。

 ただ、この方法の難点は作者の意図をできるだけ、そのままなぞるのが楽しいのか?という点。そういう読み方はあまり楽しくない、と思う。

 

 そこで、ぼくは、これもいつだったかは忘れてしまったが、作品の主題を作者ではなく、受け手が規定して、その自分が規定した主題と整合するように解釈していけばいいんでないの?と考えた。

 で、これにも難点はある。作者にその解釈を否定される可能性がある。でも、かりに間違っているといわれても、きっとこっちのほうがぼくの好みかな、と。→作品論、作家論との関係(自分用メモ)、「作者の像」≠作者、この概念を拝借。

 

 随分と前置きが長くなってしまったが、これは意外だった。

 アニメ2期まで見て、『ちはやふる』の主題を「かるた」とぼくは思っていた。ところが、多くの人は恋愛面を重視してのか、と。

 どっちも主題だでもいいかもだけど。そうすると解釈のほうの整合性はどうなるのか。まあ、ぼくが考えることではないな。

 

 なんで「かるた」が主題と言い切ってしまうのか?この作品の登場人物がみんなかるたバカだし、そんな人を見ているとかるたが楽しそうに見えたから、ということ。大江奏先生の影響か、短歌にも関心が向いた。

 

 恋愛を主題とすると、というのがちょっとぼくには考えられない。原作未読なので、アニメ2期まで構成を見るとだれの内面にウェイトがおかれていたのか?

 真島太一だった。なので、恋愛マンガとして解釈すると主人公は千早でなく、太一?って感じか。考えたことがなかったので、自信をもっては言えないな。

 しかし、恋愛を主題としても、大江奏はこの作品において重要な位置を占めていたといえそうだ。

 太一の恋の成就を大江奏、どう受け止めたのか。気になる。

 しかし、やはり恋愛マンガには思えない。というのは肝心な綾瀬千早と綿谷新が「恋愛あんぽんたん」だから。そうか、「恋愛あんぽんたん」の出てくる恋愛マンガということか。

 気づいた。ぼくはあまり恋愛マンガを読んだことがない。あ、そうでもないか。

 まあ、これもぼくの考えることではないか。

 

 かるたマンガとして見ると、団体戦個人戦の間の揺れについては触れたくなる。アニメ2期では明らかに個人戦が後景にかすんだ。が、若宮詩暢のキャラでそこはバランスしていたか。

 おおざっぱなことしか今は書けないけど、「個人戦団体戦の間の揺らぎ」を主題にするか。屁理屈をこねくり回して、そこから、かるたをするのが楽しいという結論に持っていきたくなる。

 

 だらだら書いていたら、眠くなってきた。寝る。

 

 自分用メモ

 かるたマンガとして見る

 新と千早のふたりから始まり、3人の物語に変化し、さらに部活動ものという感じか。

 

 恋愛マンガとして見る

 真島視点からの整理になると思うとだけ、記しておこう。それに大江奏の視点か。恋愛のすったもんだの傍観者というよりは、それを見守る視点か。