忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

今日は

 天気が良いので、そこらへんをほっつき歩こうと思う。

 最近はコーヒーを淹れるのが面倒になっていたが、香りは微妙なので、豆を買いに行くか。どういういきさつかはしらないものの、「さくらブレンド」という名称のものが好きだった。春っぽい感じということであろうか。

 早く春になるといいな。

 

 一億総「陰の実力者」化するといいような気がするのは、無論、ぼくが中二病気味であるからではあるが、それだけではなく、けっこう愉快な事態であると思う。世の中に酷い極悪人みたいな人たちがいて、そういう人が裏で世界を操っているみたいな世界観ではない。極悪人というのはいないと思う。何らかの事情でそういう風に見える人というのはいる気がする。で、その人たちに対峙にするのが陰の実力者ということになるかしらん。ここで、大事なポイントは陰の実力者というものは表立って動けない点にある。なので、事態を静観するしかない。もう少し、あいつらを泳がせておくとするか、と泰然としているのがふさわしい。したがって、現実は何ひとつ変わりはしない。これは完全なる杞憂ではあるが、騒ぎ立てて、モブが表舞台に引きずり出されると、陰の実力者としては名折れであるので、何ひとつ変わらないのを嘆いてはいけない。

 と大げさに書いてみると非常に滑稽な陰謀論のようにも見えるけど、なんてことはない。市井の人、つまり、モブの日常なんだと思う。

 『陰の実力者になりたくて!』という作品は非常に現代的なのかも。現在の風俗をうまく切り取っている気がする。しかし、モブへの情熱は作者の個性かもしれない。あと、権力者への憎悪を募らせるような主人公ではないところも、作者の個性だろうか。

 昔から陰謀論はあるのだろう。今に固有な特徴とかあるのだろうか。現在の情報環境に依拠した陰謀論になるのか、どうか。キリト伝説とか、今だと生まれないような気がする。

 

 コロナ人工説が本当だとするややこしいお話になると思う。

 ぼくの理解は間違っているのかもしれないが、コロナ禍においては大きく分けて二つの淘汰があったと思う。

 自然による淘汰と科学技術による淘汰。

 人間には個体差があって、自然によって淘汰されるか、科学技術によって淘汰されるか。

 自然による淘汰はウイルスと個体差、科学技術による淘汰はmRNA技術と個体差。

 人工説を陰謀論と思っていたころはこのままでよかったのだが、人工説に信ぴょう性がでてくると上記の見方のままではまずい。なので、自然による淘汰と科学技術による淘汰の競合という見方は捨てる。

 どこがまずいのかと言えば、ウイルスが人工物であるなら、自然による淘汰ではなくなる。コロナ禍は自然の摂理に身を任せるよりほかに道はないといったお話は成立しなくなる。ただし、それでも人為的に効果的な対策は講じようがないのだから、ほっとくしかないとは言えそうな気もする。

 ちょっとぼくの頭のキャパ超えてるので、これ以上は書きようがないが、人工説を前提とすれば、すくなくとも、自然に身を任せるという言い方は不可能かと思う。科学技術による淘汰と科学技術による淘汰、このふたつの競合状態か。どなたかが、もうすでに「一種の戦争」と形容されていたが、たしかに、科学技術による淘汰の競合の最たるものは戦争かもしれない。

 ところで、「陰の実力者」ならここでも、大騒ぎせずに静観する気がする。うーん、やっぱ、陰の実力者とは世間一般が考えるところの無知な大衆なのではないか、と思う。無知というのはそうするより仕方ないというような笑えないレベルの滑稽なリアリズムな気がする。というか、そう考えてみたくなる。ぼくは中二病なので。「大衆の原像」論者ではない。

 

 この線から、「ワクチン」政策の意味を問い直すとやべー気がするけど、やっぱ、ぼくの頭では理解が追い付かないな。静観しよう。

 ひとつだけ、宇露戦争でも明らかになったように、日本の情報環境、メディア環境は西側に依存している。依存しているフリなのか。依存せざるを得ないのか。ともかく、依存状態がある、この事実から考えるしかないような。やべーのだけど、どうしようもなさそうだな。静観しよう、そうしよう。

 

 岸田さんは「検討」が好きということになっているらしいが、ぼくは「静観」が好きということにしておこう。

 

 ※mRNA技術に対する科学的見地からの疑義といったものは考慮せずに書いたので、現実よりいっそうに複雑なものであるとおもいます。

 ※ファイザー社研究員?の動画は見ました。