忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

見逃していたアニメについて、その他

 流行にそれなりにのりながら、アニメを視聴しているのに、『王様ランキング』は見ていなかった。今朝、配信サイトでたまたま見つけたので視聴した。といっても、1期の10話までだ。

 そのメモ、というか感想。

 主題はかなりはっきりしている。<悪>だと思う。

 頭のてっぺんからつま先まで悪に染まり切った人は本作にはでてこない。それと同様に善に染まり切った人もでてこない、と書くとオイオイとツッコミがくるかもしれない。第一王子ボッジをお忘れか?と。

 無論、忘れてなどいないし、彼のこころには一片の曇りもないとはぼくも思うが、しかし、彼のような人間を社会構造の中に置いてみるとはたして、それは善と言えるだろうか?彼が彼のきれいな心に従って、政治を行えば、それは善政となるのであろうか?あるいは、こう問うこともできるかもしれない。彼が王位につけば、彼の善性は損なわれるのではないか?と。

 とあまりに明後日方向にお話を展開しても説得力を失うだけなので、10話までの描写に絞り、ボッジが善「だけ」とは言えない根拠を示しておこう。彼のあまりにきれいな心は他者の悪を指嗾している。そんな描写がある。そのことがもっとも端的に表れているのが、弟、ダイダの描かれ方である。

 

 で、<善>と<悪>の両方が描かれているとして、どちらかと言えば、<悪>に重きが置かれていると感じる。

 

 さて、困った。前言を覆すことになるか。

 この作品がおもしろいのは具体的な描写の確度にあると感じだ。ひとによってはどこかでみたようなエピソードの順列、組み合わせと思うかもしれない。しかし、たとえそうであったとしても、その順列、組み合わせはとても的確に配置されていると感じる。その結果、<悪>が浮き彫りになっていた。

 あれ?変な踊りをしているジャングルの王者の挿話はそうでもなかったかも?でも、その一点くらいだ。

 具体的なエピソードのひとつひとつがおもしろかった。

 とすれば、前述した少々、抽象度を上げた解釈は野暮なものに思えてくる。やっぱ、文学は具体的な描写にその本領がある気がしてくるのだが、ぼくは感想として残す時、どうしても、ある程度、抽象度を上げた記述に落ち着くのはどーしたもんかな、と。

 困ったな、と。

 しかし、開き直るしかないか。

 うーん。やっぱ、単純な命題に還元しちゃっているのかもだな。まあ、いいや。とりあえず、この話題は忘れよう。

 

 冬アニメはまだ見ていない。とりあえず、明日の『水星の魔女』1期、最終回が楽しみだ。

 

 ちょっとだけメモ

 しかし、不思議だ。ぼくはけっこういろいろなことについて具体的なイメージがわかないことがおおいのだが、なんで、そんなぼくが文学を長年の趣味として、楽しんできたのだろう。最近と言っても、去年のことではあるが「独在論」というものを知って、さらにその謎が深まったというか、混乱したというか。でも、抽象的な議論に理解が追いつかないことのほうが多いか。慣れの問題というのはありそうだけど、それにしたって、実際、小説を読むと、まず、具体的に描写に魅かれる場合が圧倒的に多いので、頭は大混乱してくる。

 あ。好きな箇所と解釈は別の問題か。

 ということに、とりあえずしておいて、次の話題にいこう。

 

 共感型読書?

 こういうことばがあるのだろうか。

 そういう読み方があっていいような気がする。ただ、なんだろう。そういう読み方をしていても、文学には出会わない気がする。放言すると、文学に出会う人というのはなんつーか暗い。共感型読書は日なたの読書であるのだから、そういう人が無理に文学に出会わなくていいような気がしてくる。エリート主義みたいなお話ではないですよ。

 いつだったか。ロシア文学なんて勉強するもんじゃねえとうのを見かけた。まあ、ご時世からの含みもあるだろう。失礼な物言いとは思ったが、案外もぼくも文学自体、ろくなもんじゃないという印象は持っている。なので、「ロシア」文学と特定していなければ、ある程度、同意できる部分はあった。

 人文学批判ではないですよ。むしろ逆で、数としてはあまり多くはないのかもしれないけど、文学に出会ってよかったという人はいると思うというお話だ。

 やっぱ、よくわからんな。文学はダメなんじゃねーか、と思える部分はやっぱあるしな。

 この話題はスルーしたほうがよかった気がする。残しておこう。

 

 異次元の少子化対策について

 冷笑するつもりも、批判するつもりもない。

 少子化対策というのが社会設計の漸進的変更を含むのか?

 うーん。「氷河期世代」に見切りをつけた段階で、社会設計の変更に道筋をなぜつけようとしなかったのか?社会資源の安定的縮減みたいな方向性。スーパーシティ?みたいなの。しかし、これも別に政治だけの責任ではなよーな。なんというか、暗黙に社会で人口減を避けられない事態として是認したのであろうし、何をいまさら慌てているんだと思わなくはない。それとも、慌てているわけではないのか。

 しかし、こういうことを記述すると実に空々しい。自分に冷笑したくなる。別にぼくは「氷河期世代」の代弁するつもりはないし、彼らに同情的であったわけでもない。

 それにバブル経済の崩壊から、その後始末に失敗?して経済停滞があり、たまたま、ある特定の世代にひずみが出たという理解でいいのか?がわからないが、その停滞がなかったとしても、人口動態に変化はあったのだろうか?

 岸田政権には安定して政治に取り組んでもらいたいと思うくらいお話かもだ。

 ぼくは自民党支持者はない。どこの政党が政権を担当しようと安定して運営すればいいと思っているだけ。好き嫌いでいえば、自民党立憲民主党と維新は好きでも、嫌いでもなく、関心がない。投票では政党名、政策は考慮しない。性別→年齢で決めている。この順番をそのうち変えようと思っている。ぼくのような無党派層はたくさんいそうな気がする。

 しかし、あまりテキトーなことを言ってはいけないか。たぶん、社会資源の縮小といっても、その実態は地方と都市で全然、違うのだろうから。

 社会への関心を失いたくなってくる。が、悲観するよーなことにも思えないし、みなんなでごまかし誤魔化しやってきましょーとはならんのだろうか。あれ?これぞ、自民党的発想なのか。いや、既存政党は大体、そんな感じなのか。

 この話題こそスルーしておけばよかったかもだ。このノイズは残しておこう。

 

 寝る。