忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

気になったこと いくつかメモ

 めんどーなので「メモ」という表記を多用しているが、特にメモをしているわけでもない。

 

 ①三角関数不要論について

 これ自体についてはとくに意見もない。金融リテラシー?をみんなが学び、みんなが最適な行動をしたとするとそこからお金を増やすことは可能なのか?まあ、実際には、そうなることはありえないから、杞憂にすぎないともいえる。ただ、金融のド素人からするとみんなが最適の行動を取ったら、だれももうからなくなる気がするけど、違うんだろか。

 

 ②大塚英志さんについて

 当該の書評は読んだけれど、当該の書籍を読んでいないので何ともいえない。

 話は飛んでしまうが、「在野」ということばが使われるのはアカデミズムだけだろうか?ジャーナリストは?宮武外骨とか。

 それにぼくは小林秀雄とか、吉本隆明を好んで読んでいたので、「在野」に思い入れがあるのか?といえば、それほどでもないような。「在野」だからおもしろいということはないよね程度のお話で大げさなことをいいたいわけではない。小林秀雄菊池寛にちゃんと学位をとってから…のほうがよいとアドバイスを受けたみたいな話をきいたことがあるが、これは勘違いだろうか。

 前置きが長くなった。

 ぼくが気になったのは全然違うことだ。「ポピュラーカルチャー」という文章を読んでおもしろいと思ったのだ。柳田学の特徴として、近代知識人の特権であった内省、反省の大衆化を企図していた点が挙げられていた。

 ツイッター、ブログなどを活用することによって、現代はぼくのようなそこらへんに生きている人もお手軽にその内省をネット空間に吐露できるようになった。

 では、柳田國男が現代に転生して、たとえば、ツイッターなら、ツイッターの様子を覗いて、どんな感想を漏らすだろう?まあ、この点については吉本にも聞いてみたい。彼もまた、近代知識人の孤独についてよく言及していたのだし。現代のネット空間は「近代知識人の孤独」的なものであふれかえっているのだ。

 柳田の願いは達成されたかのように見える。が、そう言い切っていいものか、どうか。

 吉本なら全面的に肯定したとも、思えるが…ちょっとコムデギャルソン論争を読み直してみようと思いました。

 そんでも、ぼくはもやっとしますね。「空気の支配」みたいなものが顕在化すると、それはもう個人の内省の吐露ではなくなる。あまりいいたくはないが、それなりに有名な日本人のツイッターとか、ある事件が起きたとき、ほぼ予想通りの反応である場合が多い。これはもう社会的な期待に応えてのことだろう。もしくは、逆張りの2パターン。で、その逆張りすらも、ある意味、社会への期待に応えている。つまり、逆張りしそうな人が逆張りしている。まあ、そういうものなのでしょう。社会的な役割というのは影響力に比例するものであるということでありましょう。

 技術の進歩って本当におもしろいと思う。先人が苦労していたことがするすると達成できちゃうのだから、といっていいのか、どうか…

 

 そういえば、大塚さんの本は読んだことはあるが、東浩紀さんのはない。まあ、いろいろ理由はあるが、本というのは出会いなのだと思う。その機会に恵まれなかっただけ。とくに読書が趣味というわけでもないので。

 

 ③批評を書きたいというのがよくわからない

 ②の最後に余計なこと書いたので、思い出した。読書と異なり、アニメの感想を漁るのは今のぼくの趣味のひとつと言えるが、それでたまに目にする。「批評」を書きたいみたいなお話。これがよくわからない。ぼくから見るとその人の感想文はすでに「批評」と見える場合もある。ようは、その人だから感じたこととか、その人だからそういう解釈になったとか、そういう部分があるとすでにそれは「批評」なのでは…と思うのだが、よくわからん。文体の問題なのかしら?とすれば、それは批評家っぽい文体で書きたいとなり、ぼくのイメージでは初期の小林秀雄。たしかに、かっちょいいけど…本として読んだら、かっちょよくない文体で書かれた『本居宣長』のほうがすごいと勝手に思っとる。

 ついでに、もうひとつ、わからないことば、「解像度が高い」。これもよくわからない。まあ、ぼくはそういうのが気にならないだけか。しかし、解像度を上げると、たぶん、気分が悪くなると思います。見え過ぎると気分が悪くなる。眼鏡を新調した時とか。

 

 批評が読まれなくなった?というのもよくわからない。批評はそもそも文学の批評ではない?文学の批評であるなら、それ以前に文学が読まれなくなったということか?文学は読まれているけど、批評はそうでもないのか?

 文学を読むのはめんどーなので、だんだん、読まれなくなるみたいな傾向を吉本は悲観していなかった。もっとも、文学を熱心に読もうという人は、いつの世もかならず一定数いるという楽観が彼にはあっただろう。

 それを読んで、随分と世知辛いことをいうもんだと、当時、思った。でも、時間の使い方はどんどん多様化しているのだし、それほど文学に熱心でない人は別のものに向かうかも。ぼく自身に限って言えば、1年間に読む小説の冊数とかにあまり変化はないが、最近は古典とラノベを読んでいる。このふたつがおもしろいので。

 

 ④永井均さんが大森壮蔵に関する論文で言及していた「私」ということばについて

 このお話はおもしろいと思う。「私」ということばをお用いた時点ですでに、自己意識やら、こころやらは成立してしまっているため、「私にはこころというものがありません」とは原理的には言えない。

 「私」ということばを発した時点で、我と彼との分別がついているからだろう。

 

 目

 自分のことは鏡を通してしか、視認できない。

 鏡もすごいメディアなのだと思う。鏡以前は、海とか、川に行って、自分を視認したのだろうか。

 

 耳

 自分の声と他者の声の分別は聞こえ方が違うから、分別可能か。

 

 小さいころにやっていた遊び

 他者の人差し指の先と自分の指先をくっつけて、もう片方の自分の手の人差し指と親指でつまむ遊び。これに名前はついているのだろうか。あの感覚は…まあ、いいや。

 

 まあ、よくわからんけれど、「私」ということばが発明される前は、我と彼の分別がついてなかったということではないだろう。声の聞こえ方が違うから。

 

 ぼくなんかは秘密な美しい嘘を咲かせたいと思う。しかも、これは秘密なので他者からは嘘に見えない。『リズと青い鳥』の傘木希美はすごい人だと思う。その場でとっさに口にしたことばであるうえに、ちょっとしたいじわるな気持ちも彼女の中にあったのに、それでも美しい嘘になった。

 あれ?あらかじめ準備してたら、ダメじゃん。無意識にやらないと意味がないんだな。あれ?「嘘」ということばは他者が必要だろうか?そうでもないような?しいていうなら、神様は必要か。

 ともかく、自分と他者の分別を前提としたことばってけっこうあるのかも?と思ったのだった。

 

  秘密な美しい嘘

 秘密である以上、当人しか嘘が嘘であることを知りえない。

 が、その美しさを当人は知りえない。

 作中人物ではない第三者的視点を導入できる作品の中でしか実現できないものなのかも。第三者であれば、作中人物でも、異常に勘が鋭いとかであれば、可能か。でも、その人が美しいとかつぶやいているのをぼくが見たいか?といえば、そうは思えんな。

 やっぱ、自分で秘密な美しい嘘をつけるか、どうかを気にしても仕方ない。