忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

異論

 『リコリコ』批判への異論

 考証について、細部の描写で気になる点があるという指摘は大事かもしれない。というのはそういう細々したことの積み重ねが説得力を生むという考えはありうるだろうから。ただし、それは作者の作風次第とも思える。ある特定の作者を継続的に見ることでわかる部分ではなかろうか。細部にこだわらない作者にこの種の批判を繰り返せば、それは的外れになるのでは…

 

 真島の仕掛けたテロはアトラクションでしたという説明に納得してしまう社会というのに不満があるようだが、その納得してしまう社会のクソさを監督は描きたかったのでは?と思う。で、それこそが現代社会批判になりうるとも思う。

 あの社会の「治安が良い」という共同幻想はそう簡単に吹き飛ぶようなものではないということかと。まさに、現在の日本社会と見えなくもない。だって7月9日に公園に行ったら、すごく、みんな、というか、ぼくも含めて、のんびりとのどかな日常を過ごしていた。(この点ではぼくは批判される側に立っているわけですね。)

 

 ぼく自身が頭の整理をしていないので、ごちゃついちゃうけど、ウクライナ侵攻に際し、日本社会で起きたことはちょっとぼくの想像を超えていた。端的に言えば、その瞬間に戦後民主主義はふっとんだと思う。右派だけでなく、左派も、それを捨てたように見えた。

 この光景を真島が見たら、喜ぶと思うけど…

 まあ、作中の設定でDAは昔からあると言っていたので、そことの整合を無視することになるが、戦後の日本の欺瞞のひとつは戦後民主主義でしょう。国内の平穏というよりは国際関係上の平和を支えたのが戦後民主主義ということになるか、とは思うが、どちら根本とのところは命を大切にするという価値観によって支えられている。

 

 で、ここからはぼくの『リコリコ』への疑問になるけど、真島のいうバランスがなんたらと欺瞞を暴くというのはどうつながっているのか。一般市民には見えていないだけで、実際には犯罪がおきているのだから、そもそもバランス自体はあるよね…もっと犯罪が増えないとダメということか。なんかよくわからん感じ。欺瞞を暴くとバランスをとるは明確にはつながっていないというだけのことか。

 欺瞞を暴くということに関しては特に不明な点はない。右翼っぽい発想だな、で、そこはぼくは苦手だなという程度で単にぼくの好き嫌いはあるけど、お恥ずかしいことにぼくも、戦後主主義を欺瞞の塊と思っているので…しかし、真島みたいに欺瞞を暴きたいとは思わんな。

 

 それとDAは何の比喩なのか?

 日本社会が経年劣化によって社会のいろいろなところが限界にきているというのは、まあ、そうなのでしょう。finalventさんがご指摘の通り、医療体制と見るのが慧眼かもしれない。というのが、コロナ禍で露見した。コロナ禍は一面で、医療体制問題だった。

 ぼくは学校と見ているけど、比喩というか、まんまじゃんとも思う。しかし、学校というシステムもかなり限界が近いぎりぎりのところで人的資源によって支えられているのでしょう。

 ※経年劣化と誤魔化しましたが、根本は人口減問題と思います。この話題が好きではないので、スルーしました。

 こういうことを書いていると、眠くなるので、寝よう。

 

 話が飛んでしまうが、最近、読んだ蓮實重彦さんのエッセイは部分的に全くその通りと肯いた。ウクライナ侵攻の際、ぼくはそれを思った。主戦論を支持し、市民の戦闘参加の正当性を唱えるなら、それを可能にする立法をして欲しいと思ったのに、今のところ、国会でそういう動きはない?それとも、ぼくがニュースを見ないから、知らないだけ?どっちなんだろ。

 で、なんかそういう状況も『リコリコ』は捉えているようにも思える。そういう動きが国会でないのに無反応な社会。

 

 と書くと、余計に『リコリコ』批判する人が増えたりはしないか?と遠慮していた。

 真島は槙島論はややこしい問題であるので、誤魔化す。ジョーカー亜種ではないと思う。

 

 全然、関係ない話題。米国中間選挙ウクライナへの関心度はどんなものなのか。やっぱ、国内のインフレ問題のほうが重視されるのか。

 こういうこと書くと親ロシアに分類されるのだろうけど、アメリカがどんな見通しをもって援助しているのかが今ひとつわからんのだが。なんの見通しも持ってないってことないよね…ニュースを漁ってみよう。