忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

夏アニメ メモ、先日の補足、AIについて など

 豚バラを食べ過ぎた。

 それにしても、茄子がおいしすぎて、鼻血ぶー。

 焼いてよし、煮てよし、炒めてよし。味噌汁に入れもおいしいし。

 茄子ばっか食べている気がする。

 

 絵を描くAIについて

 絵を描くAIに限らないかもしれないが、素人のぼくから見ると、AIは人間に近似していくのか?、それとも、そもそも、人間に近似するようにつくられているのか。

 まあ、なんだろ。人間離れしたAIというものを人間がつくることができないのか?

 

 類比してみたくなるのは、作家が作家以上の能力を有する登場人物を描けるのか?

 よく話題に上がるのは、というほど見かけないうえに、くだらないとはおもうけど、作家は自分より頭のいい登場人物をつくれないという主張を見かけたことがある。雑に結論から言えば、作れると思う。人間の想像力?創造力ってそういうもんだと思う。能力に限らず、自分からはみ出していくものでしょう。

 やっぱ、いずれはAIに人間はすべての領域において、能力的には抜かれるのか。

 具体的な想像とかできないけど、そういうAIばかりではなく、人間離れしたAIというものも出てくるのだろうか。

 

 埴谷雄高は宇宙人が将来、地球に来た時に備えて、宇宙人向けの小説を書いていると言っていたが、そうは言っても、実際には地球人向けだったのだろう。

 あ、関係ないことを思い出した。埴谷雄高はすごく記憶力がよかった気がする。というのを『二つの同時代史』を読んでで、思ったのだ。まあ、この読書の記憶自体曖昧だが、雑誌『近代文学』のいついつのに梅崎の作品がのったというようなことを仔細に埴谷は覚えていたような?そういう細々した話を大岡昇平はしていなかったと思う。それとも、後から編集過程で加えられた情報だったのか。よくわからんけど、この記憶力は人間離れしているというとおおげさか…

 

 『よふかしのうた』10話まで見た。

 お話としても、かなり楽しんでいる。4、9話が好きだ。4話の七草ナズナの狸寝入りのシーンは最高だったし、9話のセリのセリフもよかった。

 10話のテーマもよかったけど、個人的な関心度の問題で、4、9話のほうが好み。

 

 『金装のヴェルメイユ』はこれまた、とてもおもしろくなりそうなところで終わる予感。アニメは原作販促の側面があるのだろうから、仕方ないのか。

 

 『リコリコ』の感想はいろいろ見た。批判している人もかなりまじめに見ている様子だ。肯けるものもある。以前にも日記に書いたが、槙島の設定、その特異体質はあの作品に非常にはまっていた。見事な設定だったが、それに対して、マジマの耳がいいはそこまで、というのは、あの社会に対置する能力にはなっていない、とぼくも感じる。

 槙島はあの作中の社会の申し子であり、忌み子であった。その両義性はあの社会の共同幻想と背馳することを意味する。なので、消された。すごくよくできた設定だったと思う。

 で、さらに、槙島から実在した人物を連想してみると、ひとりしか思い浮かばん。

 

 話の流れを無理やり変える意味で、すこし脱線すると、『機動警察パトレイバー』の帆場、柘植、あるいは、『SAO』の茅場。それとそれぞれと対になる存在。

 槙島は狡噛ではなく、常森朱だと思う。

 帆場、柘植は後藤。で、この三人は押井守監督か!みたいな。後藤は違うか。

 茅場はキリト。

 

 あ、そうだ。大事なことを書き忘れた。

 先日の補足だ。共同幻想という伝わりづらいことばを使ってしまった。ぼくが共同幻想ということばを使うとき、それはただの幻想であり、偽りであるという含意はない。共同幻想はそう簡単に吹き飛ぶようなものではないと書かないと幻想ということばからいらぬ誤解を生んでしまったかも、と。

 で、やっぱり、『リコリコ』の作中だけではなく、現実の日本社会の治安の良さも、共同幻想の問題とぼくは思っている。今年の7月9日、公園に行ったら、人がたくさん、いて、ごく普通の日常の光景があった。そーいうことなのでは、と今でも思っている。

 

 もう一個、とても、大事なことを書き忘れた。

 今日、帰路で不意にわかってしまったことがあった。

 『やがて君になる』というタイトルの意味。

 以前までは、燈子視点で

 燈子はやがて姉になる、と思っていた。つまり、「君」は姉を指している、と。しかし、あまりしっくりこねーなみたいな。

 さっき、わかった。

 燈子視点で

 燈子のこころの中心にあるものは、やがて姉から小糸侑になる、ではないの?と。こう解釈すると、「君」は小糸侑になる。

 つーか、タイトルの解釈が変わるように、この物語自体が変容していったと見ることもできるんじゃないか、とぶらぶら歩きながら考えていたら、例によって、道を間違えた、というか、通り過ぎてしまった。

 だから、どーしたと問われると、すこし、困るが、好きな作品の理解が、たとえ間違っていたとしても、少し進んだ気がするのは悪いものでじゃない。そんな気がする。気がするだけ。

 

 ※燈子だけでなく、沙弥香にも同じことが言えそうだ。