忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

モヤっとする話

 結局のところどうしようもないよなと思える話。

 敗戦の後、「開かれた皇室」になっていく過程で当然、予想される範囲のことがおきたのだと思う。敗戦時の政治家、学者、思想家が今の光景を目にしたら、はたして驚いたであろうか?

 現在の状況を見て、ごく平均的な人にとって精神的につらい制度あることは多くの人も理解している。また、そういうつらいものをなんとか耐えようとする人の性(さが)があることも否定しがたい。なぜ、敗戦後も、この制度を残したのだろう?そのようにぼくは思ってしまうが、同時に今、この状況においても、皇室制度はなくせないと多くの人が思っていることはわかるので、変な言い方になるが、この制度は残り続けるのだろうと思う。

 他者に無理を強いる制度であることは百も承知で、それを無くせそうにないと多くの人に思わせる。このからくりに様々な注釈をつけることは可能かもしれないが、それをしったところでなんになるのか。

 以前、パブリックリレーションズを工夫すればいいという話を聞いて、くだらないと思ったが、それがいいのかもしれない。パブリックリレーションズがパブリックリレーションズであると理解されれば、ありしもない権威化の弊害は免れるのかもしれない。

 しかしだ。今上の顔を見て、あれはパブリックリレーションズなんだ、とぼくが言えるのか?役者が役を演じていると思うことは山ほどあるのに、この場合には、そうは思えない。なんで、共和制に変えなかったんだろうといつも思うよ。年に1回くらいの話ではあるが…

 

 「新自由主義」について

 まず、ぼくはこのことばが出てきた経緯を知らない。

 サッチャーレーガン、中曽根の時代?

 「官から民へ」というのは大体賛成。

 今、このことばが話題になっている経緯も知らない。このことばが語られるとき、その多くは日本では本来の意味での「新自由主義」ではなかったということなのか?その場合なら、本来の意味での「新自由主義」を貫徹すれば、日本にもまだまだ成長の余地があるということになるのだろうか。

 ところで、そう主張する人々にとって現在のアメリカやイギリスの社会は「新自由主義」の行き着く理想郷ということになるのだろうか?理想郷ではないが、一度は通らなければならない、避けられない道ということなのだろうか?この場合だと、人間の平均寿命との関係が問題になる。一度は通らねばならぬ過程、その下振れした時期に重なった人は運が悪いという話か。いずれにしろ、こういう話をする人は物事を何年スパンで見ているんだろう。よくわからん。ちなみに、ぼくにはアメリカは理想郷には見えない。イギリスはよくわからん。

 でも、漠然と祖父母の世代や親の世代よりはぼくは豊かな時代を生きているという実感はある。30年後の社会とかは今より貧しくなっているのだろうか。ちょっと想像がつかない。

 『Vivy』にもこの問題は隠れていた。よく人は、特に政治家は「後世の歴史家の審判」みたいなことばを口にする。後世の歴史家ならきっと自分を評価するはずだと。たしかにそうかもしれない。不思議なことはその政治家を選んだのは未来の国民ではない点。それにもかかわらず、現在の国民も歴史の審判なるものに理解を示す場合もある。現在の国民も未来の国民に対して政治家と同じように責任を負っているということだろうか。ヴィヴィは本人の意志とはかかわりなく、未来に責任を負わされた。「歴史」というものを発見してしまった人間の宿痾と思える。大きく脱線。

 「新自由主義」ってなんなんだよ。そういえば、頭の中が火薬庫みたいな人たちを「ネオコン」とか言っていたような気もするが、新自由主義とはどういう関係にあるのだ。この「頭の中が火薬庫」みたいなことばも変だ。頭の中が桜並木なぼくから見るとそういう人は頭の切り替えができる人という理解。一般に、そういう使われ方をしているのかは不明。