忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

ごく個人的な その2

 自分用メモ

 政治について

 まず、国と地方とう区分け。国政ではとくに国政でしかできないことをまずやってほしい。具体的には、戦争と外交、つまり安全保障。戦前の戦線拡大を思うと、それらに付随して、資源のない国であるから、エネルギー政策も。

 もう総裁選は終わってしまった上に、ぼくは全く見ていないけれど、そこはどんなことが話されていたのか。直近の問題として、新型コロナ対策がメインテーマだったのだろうか。

 

 新型コロナ対策について

 日本で新型コロナが問題だ、というとき、何が問題だったのか。この間に日本ではふたりの総理大臣が辞めた。辞めねばならぬほどの失政だったのか?という疑問を呈されているのを見かけたが、諸外国と比べ、日本の対策はそんなに酷かったのだろうか、とはぼくも思う。酷いと思っている人が国内にどれくらい位いるのかは知らないが、外国と比較すれば日本はうまくいっている方に入るだろう。なので、他国との比較において日本をダメだとと思っている人には誤解があると思う。

 しかし、ふたりが辞めるには辞めるだけの原因が現在の日本社会にはあっただろうとも思う。ここ20年くらいの鬱積がはじけたのだろう。つまり、元から抱えていた問題がコロナ禍において顕現したのだ。人口減社会における医療体制の問題と若年層の貧困。人口減問題と世代間格差問題と言い換えることができる。

 ぼくが気になっていたのは、ここ数年間で進めてきた人口減に対応した社会づくりが新型コロナ対策によって変な方向にいかないのか、という点。一過性というと、語弊があるのかもしれないが、臨機応変に対応しすぎて、これまでやってきたことに支障はでないのか、という疑問。ただ、この点は非常に変革に及び腰だったようなので、大きな影響は出ていないのか。しかし、それでは第6波で、また、医療体制の限界を超える可能性はあるのか。どーするんだろう。

 総裁選で世代交代を印象付けるみたいな話は耳にした。ちゃんと見ていないので、詳しいことは知らない。でも、世代交代がなぜ必要なのかを訴えた候補はいたのだろうか。内政問題で明確な対立点が存在するとすれば、それは世代間格差の問題だろう。そこを自民党だけでなく、野党すらこれまで争点化してこなかったのではないか。よく、ぼくのような政治に関心がないという人を揶揄することばを目にするが、この点を争点化できない国内政治のどこをみればいいのか?さらに言えば、結婚を促したり、子を産むことを促したりすることはそれこそ政治の仕事ではないだろう。納税者が減ると困るという理屈はわかるが、国家がそこへ介入するの?迷惑な話だ。

 あと、人は気づくとあっという間に年を取っちゃうからなかなかこの手の問題はうまくいかないのだろう。ぼくもついこの間まで高校生だったような気がするのに、もうおっさんだし、すぐに老人になってしまうのだろう。生きていたらの話だが。いずれにしろ、若いと思ってあれこれいってた人間があっという間に老人になって、老人としての主張を始めるのも仕方ないとも思える。

 

 政治における対立軸の不在

 どこから話を始めればいいのか。日本は今、まともな民主主義国家ではないという話を目にした。公文書をちゃんと保管できない、人質司法を未だに残しているということか。そういう点ではそうなのかもしれない。

 しかし、二大政党による政権交代が起きないから、まともな民主主義ではないという議論には首肯できない。歴史的に形成された対立軸が存在しないから、日本は二大政党にならないのか?かりにそうであったとしても、上記したように世代間格差はあるわけだから、そこを対立軸にすればいいはずなのに、既存の政党はどこもかしこも、与党も、野党もそれをしない。既存の政党には期待できないので、革命!というのは穏当ではない。そのうち思ってもみない方向から解決はやってくるかもしれない。その解決法が戦争ではシャレにならないが、もっと平和的な解決法を思い浮かべよう。夢想するだけなら無料だしな。みたいな感じで、ぼくはあまり政治に期待することはない。

 それとやっぱり、今でもあるのかと思うのが、後進国としての日本という問題。日本は民主主義国家ではないというとき、どうもその問題が背景にありそう。これは日本政治思想史の先生とかに聞きたいもんだが、例えば、民主主義になる前の日本にも「公共」はあっただろう。こういう話をして、日本特殊論から日本礼賛に向かわれると閉口しちゃうので、難しい。皇室制度とか持ち出された日には…(ただし、後進国日本問題もかつてとは微妙に違う感じがある。例はだれでもいいのかもしれないが、野坂昭如が感じたようなアメリカに対するコンプレックスが今の言論人にあるのかは、大いに疑問。日本を持ち上げるにしても、落とすにしても、コンプレックスの裏返しには見えない。)

 たとえば、丸山眞男が江戸時代の思想研究に向かったのも、小林秀雄宣長について書いたのも、そういう問題意識がどこにあったのではないか、という気がしなくもない。

 と書いていると気づくのだけれど、西欧の現代思想で現在の日本を裁断することへの違和感が自分にもあり、ぼくはまさに丸山のいうところの亜インテリかもしれん。ちょっとした違いがあるとすれば、かつての亜インテリのような日本に対する関心がぼくにはない。

 問題は現在の日本の言論人は、左右問わず、日本についてあれこれいうわりには日本社会とガチで対峙しているようには見えないこと。だって、インテリさん(正確には言論人)たちは素人の与太話のダメなところのあらさがしばかりやっている。ダメな中にも考えるに値するところだって、探せばあるはずなのに。めんどーならしかたないか。それにしたって、世の中に論を巻き起こそうというなら、ワンサイドゲームじゃ、だめでしょ。こういうとなんだが、日本の置かれた状況はまだまだ余裕があるということかもしれない。でもなあ。『シン・堕落論』みたいものは出てきてほしくないね。

 とりあえず、ぼくは積み残している夏アニメとセザンヌ回を見るとしよう。