忘れないうちに書いておこう

タイトル通りの内容。

昨日の最後のところを書き直してみよう

 宣長のいう「もののあはれをしる」について

 「もののあはれ」自体はぼくらの日常のそこらへんに存在しうるもの。宣長さんが強調したいのはその感得の仕方、しり方。それを小林流にいうならセンチメタルな感情に溺れずにこころに迎える、ということなのだろう。

 

 

 そんなふうにぼくは解釈したわけだが、これってけっこう意識的なこころの作業だよなと思う。宣長さんというか小林がもしこれを徹底していたとするなら、そんな人間に世界はどのように見えていたのだろう、そうした疑問が湧く。ぼくもそんな眼を通して世界を見てみたいとは今のところは思わないこともない?本音を言えば、ちょっと怖いよね。(巷間を賑わせている陰謀論よりも怖い。ただし、陰謀論に騙されるヤツは馬鹿だみたいな話はくだらないと思う。そうやってこころの安寧をたもちたい気持ちは分かるが、それでは陰謀論の持つ力を相対化したことにはならない。その証拠に議会突入まではあの陰謀論のなせる業として許してしまったのではないか?うーん、この()内みたいな文章はその巧拙を棚に上げれば、スラスラと書ける。内容ゼロの文章ってやつだろうな。実験終了)

 余計なことを書くと、「末期の眼」で見る世界とは全然違うのだろうとは思っている。